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かんたんにかんたんします。

「ポーツマスの旗 外相・小村寿太郎 感想」吉村昭さん(新潮文庫)

 

日露戦争の講和交渉をテーマにした小説「ポーツマスの旗」が緻密かつ実際的な描写を次々と味わうことができてかんたんしました。

 

www.shinchosha.co.jp

 

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著者は私が好きな吉村昭さんです。

入念な取材を基に執筆されているので何もかもが史実のように思えてしまいますから、そこはあえてフィクション、小説であることを念頭に置いて読むようにしています。

吉村昭さんの文章は実際にその場面に立ち会っていた、あるいは当事者が回顧録として執筆したかのような迫真味が素晴らしいですね。

 

 

小村寿太郎さんと言えば国辱的(と当時は捉えられていた)なポーツマス条約の締結当事者でありまして、あまり風体がイケメンという感じではないこともあり、長い間世間からの評判はよくなかったそうなんですが。

 

外交官としての手腕は卓越しており、この「ポーツマスの旗」ではデキる男としての小村寿太郎像がふんだんに描かれておりますよ。

明晰かつ誠実な洞察力・交渉能力、役目を果たしきる使命感・意志の力など、社会で活躍する上であらまほしき能力を次々と魅せてくださいます。

 

 

以下、当小説のネタバレを含みます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ストーリーとしては日露戦争の経緯を簡略に紹介いただいた後、日本海海戦等の戦果は素晴らしいものの国庫はスッカラカンでもはや戦線を維持することが難しいという事情の説明を経て、小村寿太郎さんが講和交渉の全権委任に選ばれ、ロシア代表のウイッテさんと極めて難易度の高い交渉をやり遂げ、ポーツマス条約の締結に至るも、日本では講和条約に対して「なんで賠償金取れねーんだよナメられやがって媚びやがって小村の糞が政府のボケが」みたいな状態で日比谷焼き討ち事件等が発生小村寿太郎さんの家族もデビルマン的群衆の襲撃を受けるという救われない展開に至り、小村寿太郎さんはその後も外交官として活躍するも家庭的には報われず寂しい最期を迎えるという流れであります。

 

まさに小村寿太郎さんが時代の生贄的な役割を果たされたかのような筋ですね……。

 

当時の日本の知識階層も賢いので、民衆の反応も含めて講和交渉の結果が「こうなるだろうな」というのは皆分かっていたのであります。

講和交渉の全権なんて、誰もがやりたくない仕事でした。

小説内でも伊藤博文さんが固辞したことが紹介されています。

 

 

吉村昭作品らしく、小村寿太郎さんが送った行程が詳細に描写されているのですが。

日本を発つときの仰々しいセレモニーの数々と、民衆の熱狂的な見送り。

随員の山座円次郎は小村に、

「あの万歳が、帰国の時に馬鹿野郎の罵声ぐらいですめばいい方でしょう。おそらく短銃で射たれるか、爆裂弾を投げつけられるにちがいありません」

と、暗い目をして言った。小村は群衆に眼を向けながら、

「かれらの中には、戦場にいる夫や兄弟、子供が今に帰してもらえるのだと喜んでいる者もいるはずだ」

と、つぶやいた。

 

アメリカ到着後も各地で行われる歓迎セレモニー、ルーズベルト大統領たちとの秘密裏の下交渉の数々、ロシアによる巧みなマスコミPR戦略、そして日本移民からも寄せられる期待。

小村は、久水領事からきいた話を思い起こしていた。昨年八月、貧しそうな日本人労働者が領事館を訪れてきた。久水は、帰国の船賃でも乞いに来たのかと思ったが、労働者は、ポケットから二十ドル金貨一枚を出し、僅かであるが祖国に寄付したいので送って欲しいと言った。男は、二十里以上も離れた地で鉄道工夫に雇われているが、金貨をとどけるために歩いてきたのだ、という。

 

こうした一つひとつの出来事、通常の人間に対しては極めて巨大なプレッシャーとして作用するに違いないと思うんですよね……。

自分の身に置き換えて想像すれば、交渉開始前から胃袋がズタズタになってそうです。

 

 

並行して日露間の諜報・暗号に関する暗闘なども取り上げられていて、交渉が始まる前の本来は地味なシーンなのにどのページも面白いのがさすがですよ。

 

 

続いて小説は中核のシーン、ロシア代表ウイッテさんとの交渉に移ります。

この場面は下交渉の段階から各条それぞれの議論までどれもこれも緊張感と実務的高品質判断に富んでいて実にいいんです。

 

私がいちばん好きなのは第七条の妥結に至るシーン。

ロシア(表向きは民間会社)が有する南満州の鉄道・炭鉱を日本に譲渡せよという内容なのですが、ウイッテさんはそれは民間マターなので国家が日本に譲渡する権限がない、と猛反発しはるのです。

そこへ、小村寿太郎さんが「断じて民間会社ではない」と、ロシアと清国間の鉄道敷設に対する秘密条約の内容を突然暴き始めて、ウイッテさんを激しく動揺させます。

小村寿太郎さん、さすがです。

そして、そこからのウイッテさんの巻き返しもいいんですよね。

ウイッテさんは秘密条約の内容をなんと正直に話した上で、

説明を終えたウイッテは、言葉をあらためると、

「小村男爵や栗野氏をはじめロシア駐在公使の任にあった方々は、私が個人として侵略主義に反対し、常に平和主義をとなえていたことを熟知しているはずである。私は、東清鉄道を平和利用の鉄道として敷設に努力したが、紙を切る小刀が時には人を傷つけるのに使われることがあるのと同じように、東清鉄道が私の意に反して軍事に利用されることもあるかも知れない。私は、あくまでも平和を愛する人間である。私の真情を理解して欲しい」

と、言った。

その切々とした言葉に、小村は、

「モスコーの秘密条約を口にしたのは、すべてを明白にした上で討議したかったからに過ぎない」

と、おだやかな口調で述べた。ウイッテは、

「貴方が真実を述べてくれたことに感謝する」

と言い、小村も、

「詳細で、しかも率直な説明に敬意と謝意を表したい」

と答え、議場に和やかな空気がひろがった。

 

と建設的な議論に移っていくのです。

どちらもナイスファイト! な印象を抱きます。

 

 

ですが……焦点たる賠償金と領土(樺太)の議論は、ロシア本国内のウイッテさんも手をつけられないような事情もあって、極めて厳しい状況に追い込まれます。

小村さんもウイッテさんも講和はしたい。平和を得たい。

一方で小村さんもウイッテさんも役目としては条件を緩めることなどできない。

妥結点が見つけられない……

胃袋を雑巾絞りにするような緊迫が続き、このままでは交渉は破談、アメリカから撤退もやむなし……となる本当に直前のタイミングで、日本政府が賠償金条件を下ろすことを決断し、辛うじてポーツマス条約締結と相成るのでした。

 

条約署名時の小村寿太郎さんのセリフがまたいいんですよね。

「両陛下が平和を心から望まれたことによって、ここに講和条約が成り、人道、文明に寄与されたことはまことに賞讃すべきことであります。今後、日露両国の友好に尽力することは私の義務であり、喜びでもあります」

 

私の義務であり、喜びでもあります。

いいフレーズです。無茶ぶりやきついノルマを前にしたときに言ってやりたい。

 

 

 

……ここで終わればハッピーエンドなのですけど。

 

小村寿太郎さんは心身の摩耗からか肺尖カタルに倒れ、日本では国民の暴動が起こり、妻子は暴徒に襲撃され、帰国後も彼へのバッシングは続きます。

そんな中でも小村寿太郎さんは敏腕な外交家としての役目を果たし続けますが……。

 

衰弱から身体は急速に衰え、外相辞任後、僅か3カ月で息を引き取ります。

享年56歳。

その後も小村寿太郎さんの名誉が恢復することは長い間ございませんでした。

 

 

 

そんな作品です。

現世に対する諦念が濃い内容かもしれませんが、筆致はあくまですこぶる芳醇ですよ。

 

以前(このブログを始める前)同じ吉村昭さんの「ニコライ遭難」「海の史劇」という日露関係の小説を読んでいて、それぞれが大変面白かったこと、

ゴールデンカムイが面白いこと、

さいきんの日露関係、

などなどの背景もあり、大変興味深く読ませたいただきました。

 

運命に殉じたかのような人の物語は胸を打ちますね。

 

 

こうした歴史の積み重ねの上で現代がある訳ですので。

なんやかやありますけど世界人類が平和でありますように

 

 

 

 

「犬を飼う そして…猫を飼う」谷口ジロー先生(小学館)

 

谷口ジロー先生の名作「犬を飼う」および短編集の再編集版が発売されていてかんたんしました。

目に涙を溜めながら読ませていただきました。

 

www.shogakukan.co.jp

 

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土山しげる先生の遺作「流浪のグルメ」を買う流れで、谷口ジロー先生の作品も手に取りたくなったのです。

谷口ジロー先生も今年の2月にお亡くなりになりました。

親しんでいた漫画作品の作者が次々に……。

 

最近だと谷口ジロー先生は孤独のグルメの作画で有名ですが、もともと様々なジャンルの作品を発表されていた方ですので、人によってイメージする代表作は異なることでしょうね。

私は漫画版「センセイの鞄」が心に残っています。

 

 

「犬を飼う」は有名な作品なのでご存知の方も多いかもしれませんが、谷口ジロー先生の実体験をもとにした、老犬を看取る内容の短編です。

人間の介護同様に、散歩の介助、下の世話、24時間体制での看病等々……家族が老犬に振り回され、疲弊していく様を、美化せずリアルに描写した上で、その上で本当に、最期の切なさが胸を打ちます。

犬に限らず、大切な存在を亡くした経験を持つ方であれば、きっと涙を流さずにはいられない……卓越した描写が見事の一言です。

 

老犬「タム」が逝く直前のエピソード、散歩中にお婆さんが話しかけてくるシーンがくるんですよね。

「おまえ… いつまで生きてるつもりなんだろねえ。」

「早く死んであげなきゃだめじゃないかね。」

「おまえ……わかるだろ? あたしもさ、早くいっちまいたいんだよね。」

 

「おばあちゃん、そんなこといわないで、」

「もっと長生きしてよ。」

 

「楽しいことなんかなんにもありゃしない。」

「あたしゃね、迷惑かけたくないんだよ……」

「この子だってそう思ってる。」

「そう思ってるんだよ。」

「でもね、死ねないんだよ…… なかなかね……死ねないもんだよ。」

「思うようにはね…… なかなかいかないもんだね。」

 

お婆さんとタムの表情、それぞれが、読者の様々な感情を呼び起こすようです。

お年寄りのこういう独白、実生活で耳にしたことがある人も多いと思うんですよね。

 

 

他に収録されている「そして…猫を飼う」以降の作品も、エッセイ「サスケとジロー」も、「百年の系譜」も、いずれも優れた作品なので外せません。

 

猫関係では「庭のながめ」という作品で、仔猫を一匹里子に出したときの、母猫の描写が堪りませんでした。

 

「百年の系譜」は戦時中の、軍用犬にするため愛犬と引き剥がされた少女の話なのですが、これも泣いちゃいましたね。

詳述はしませんが、別れのシーンだけでなく、日本兵の最期の描写、米兵の「オーマイゴッド」という素なリアクション等、短編の中に名場面がたくさんございました。

 

 

谷口ジロー作品は余韻、余情に富んだものが多くていいですね。

これからも私は折に触れて読み返すことだと思います。

 

 

若い世代の方々にも、谷口ジロー作品に触れる機会が訪れますように。

図書館とかにあったらいい作品だよなあ。

 

 

 

「流浪のグルメ 東北めし 3巻」土山しげる先生遺作(双葉社)

 

単行本化を諦めていた「流浪のグルメ」最終巻が発売されていてかんたんしました。

土山しげる先生の冥福を心よりお祈りいたします。

 

双葉社サイト

http://www.futabasha.co.jp/booksdb/smp/book/bookview/978-4-575-31375-8/smp.html?c=20998&o=date&type=t&word=%E5%9C%9F%E5%B1%B1%E3%81%97%E3%81%92%E3%82%8B

 

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流浪のグルメは、ハンター錠二こと獅子戸錠二さんがトラッカー仕事をしながら東北地方のグルメを満喫しはる内容の漫画です。

 

ハンター錠二をご存じない方は大人気大食い漫画「喰いしん坊!」をお読みください。
Vシネマ版はあまりお勧めしませんがBGMは癖になります。

 

どうも喰いしん坊!の前日譚という位置付けのようで、地味にミスターマスクマンこと熊田剛さんも登場してきはります。

トラッカー出身者多いんだなTFF。

 

 

漫画の特徴としては、起伏のないストーリー……

というと聞こえがよくないかもしれませんが、ハンター錠二さんが元気のない若い衆なりサラリーマンなりカップルなりを人助け的な形で東北地方の実在する食べ物屋さんに案内し続けるという流れで、1話内の起承転結や盛り上げや引きにこだわることなく、自由なリズムで食べものを楽しみ続けるのがなかなか独特で味わい深いのですよ。

 

東北グルメといっても観光客向けの店は少なく、地元の人が嬉しくなるような店・食べ物が取り上げられることが多くていいですね。

既刊の1-2巻でもよく知られた名物料理ではなく各土地に根差した食堂やパン屋さんなんかが多く取り上げられていて好感度が高かったです。 

取り上げられた舞台の中では仙台編がいちばん好きかなあ。

じゃじゃ麺に対する地元人と県外人との温度差の描写とかも印象的でした。

 

 

この3巻では、前に登場したカップルや「姫トラお京」さん、「早トチリの兆治」さんなんかが再登場しつつ、ハンター錠二さんのソロ大食い回が多くて楽しいです。

 

八戸名物の「グラタンフライ」という総菜パンを食べてから、

「やっぱり1個じゃもの足りねえ!」

クシャッ(ビニールを握りしめる音)

 

とスーパー前でやってる焼き物移動車でにしんとホタテとイカを買い食いしているのが愛しくて格好いい。

競技大食いもいいですけど好きに自由に買い食いしている錠二さんもいいですね。

 

青森で早トチリの兆治さんにご馳走していた「ほたて貝焼きみそ定食」もすこぶるおいしそうでした。

青森行きたい。

 

 

土山しげる先生が今年5月に急逝されたので単行本化するほどまとまった原稿はないんだろうな……と思っていたところ、20回分、ちょうど単行本1冊分程度のストックはあったようで、無事に3巻が発刊されたのは何よりでした。

 

最後の擬音とセリフが土山しげる節感のある

サフッ

ハフハフ

モクモク

「うまっ♬」

「カレー足りねェー!!」

「あたしもっ!!」

 

だったのもよかった。

ほんまよかった。

 

モクモク、ていう土山擬音いいですよね。

 

 

急逝されたときは本当にショックでした。

友達から一報を受けたときはしばらく茫然としてしまいました……。

最近も精力的に作品を出されていたから、ご体調が優れないなどとは露も思わず。

 

数か月経って、ようやく落ち着いて作品に向き合えるようになった心持です。

 

 

他の連載中だった作品も、どうにか単行本化なされますように……。

 

あまりに惜しい。

早すぎます……もっと新作を読みたかった……。

 

安らかに……。

 

 

映画「ロトセックス」廣田幹夫監督

 

ロトセックスという口にするだけでIQが下がりそうなタイトルのアダルト映画がB級感全開でありながら無駄にほっこりできてしまってかんたんしました。

 

貴重な休日に自分は何を観ているんだろうとも思いつつ。

 

ロトセックス - Google 検索

 

 

70分弱の短い作品になります。

10分に1回くらいはサービスシーンがあるような類の映画ですね。

 

 

あらすじとしては……

 

失業した夫が宝くじにハマってしまってもうダメダメヒモ野郎なので、妻が夫婦間でくじをやって、それで夫を元気づけて勝ち癖をつけさせて社会復帰してもらおう……

 

という。

 

 

うん。

 

 

夫婦間のくじの内容は、6桁の数字をふせんに書いて、0~9の回転ボードに6回ダーツを投げて、数字の一致桁数に応じて

 

 1等(6桁一致) :セックス

 2等(下5桁一致):

 3等(下4桁一致):

 4等(下3桁一致):

 5等(下2桁一致):キス

 

というご褒美が当たるというもの。

(2等~4等の内容はご想像にお任せします)

 

一の位から順番にダーツを投げていく仕組みですので、1投目で外したら即失敗。

シビアです。

 

なおくじは1回千円。

1等が当たる確率は単純計算で100万分の1。

当たるまでやるにはダーツを投げる夫の肩も財政も破綻しそうです。

はたして夫は1等を当てて妻を抱くことができるのか!?

 

 

見どころはこのくだらないアイデアだけで、あとはいかがわしいシーンもドラマシーンも取り立てて注目すべきものではない、あえて言えばところどころシュールなセリフや設定がじわじわくるくらいなのですが。

 

夫婦のゆるい演技が絶妙に駄目な役柄とマッチしていたり、

夫を雇ってくれる建築会社のおっさんの演技が妙に上手かったり、

なんだかんだで夫婦の仲睦まじさに微笑んでしまう構成になっていたりで、

「癒された」感が雑に湧いてくるんですよね。

 

人間的に駄目な人はいっぱい出てくるものの、

アダルト作品にありがちなバイオレンス的演出がないのもいい。

 

ゆるほっこり系のエロ映画でありました。

 

 

 

TSUTAYA某店舗に置いてましたし、何かのついでに借りてみて期待せずに観てみたらかつ心身の具合によっては意外と面白いかもしれない作品です。

夫婦の生活再建ものが割と好きな自分に気づきました。

 

世のご夫婦みなさまも親しくあらせられますように。

 

 

 

「夜の工場百景 ~ドローン空撮写真集~」小林哲朗さん(一迅社)

 

さいきん発売された工場夜景をドローンで撮影した写真集が興奮するほどダイナミック綺麗でかんたんしました。

 

www.kobateck.com

 

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小林哲朗さんのお名前、色んな媒体で目にするようになってきましたね。

 

氏のHPでは写真作品を多数拝見することもできますよ。

中之島の空撮写真は建物が背の順に並んでいるみたいなおかしみがありますし、
赤ん坊の昼寝写真はすこぶるかわいいですし、
姫路城や彦根城は縄張りを理解しやすいですし、
言い出したらきりがありませんがとにかくどの写真も素敵です。

 

 

こちらの写真集はその名の通り工場夜景をドローンで撮影したものです。

たぶんその響きだけでよだれが出るような工場ファンも多いのではないでしょうか。

人間の視点で見ても大きくて迫力があって機能美があってロマンがある工場を、鳥のような空からの目線で俯瞰的に見ることができたらそりゃエクスタシーですよね。

 

こんな写真を目にすることができるとは、本当にいい時代になったものであります。

 

 

 

是非手に取って写真を見ていただきたいのですが、

 

私は大きいモノ好きですので#001のタンク、#031の蒸留塔、#041、#045や#049の煙突、#053・#054の船と工場……などにまず惹かれました。

 

他にも、工場独特の細密なパイプ網と灯りの対比が美しい#009や#014、#032。

 

#019や#024、#094など、工場から吐き出される蒸気は幻想的でさえありますし、

#50の夜霧と煙突の構図は異世界と繋がったかのような神秘性が漂っていますし、

夕暮れ時の工場を写した#70や#71、#77などにはなぜだか郷愁を覚えます。

 

うねうねしたパイプが魅力の#82のセメント工場、

年季と質実を感じさせる#096の鉄工所なんかもたまりません。

 

真俯瞰、完全真上から工場の幾何学を捉えた#067、#068には未来を感じますね。

 

 

工場に関する資料としても最高な写真集になっていると思います。

漫画背景とかでこうした工場を緻密に手書きしたら死んじゃうでしょうけど、重要なシーンの舞台にしたら映えるだろうなあ。

 

 

巻末のインタビューの、次のエピソードもよかったです。

迫力のある真俯瞰を撮ろうと思ったら、今はドローンでしかできない。撮影させていただいた工場の方にも驚かれていました。「うちの工場はすげえな!」と(笑)。

 

こういうのがドローン写真の魅力ですよね。

うちの工場はすげえな!ってセリフ、よっぽど嬉しくて驚嘆したからこそでしょう。

よく知っているモノの知らない面を知る喜び。

好き。

 

 

 

けっこう売れているみたいで、本屋さんで平積みプッシュされていました。

いまなら手に入りやすいと思いますし、確保をおすすめしたい一冊です。

 

港、橋、駅、道路、空港、寺社、城、ビジネス街……

人間の築いた巨大インフラとドローン空撮は相性いいですね。

 

今後も素敵な続編が登場しますように。

 

 

「ドローン鳥瞰写真集 住宅街・団地・商店街」著 小林哲郎さん / 監修 東地和生さん(玄光社) - 肝胆ブログ

 

「北条氏康の妻 瑞渓院 政略結婚からみる戦国大名」黒田基樹さん(平凡社)

 

北条氏康さんの妻「瑞渓院」さんを切り口に今川家・北条家の興亡を追った書籍が興味深くてかんたんしました。

 

www.heibonsha.co.jp

 

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さいきんの中世本は「家格」「身分秩序」といった当時の価値観をあらためて評価する本が多いような気がいたしますが、この本では「正妻」という立場の役目、重さ、くびきを詳らかにご教示いただける内容になっております。

 

「正妻」から生まれた子だから嫡子はこの子、二番目の跡取り候補はこの子。
手元に置いておきましょう。

この子は妾腹の生まれだから養子に出すことにしましょう。
ああでも、養子先が立派な家だから、いったん「正妻」と養子縁組してからあらためて外に出すことにいたしましょう。

 

そんな判断がふんだんに味わえます。

 

……妾経験者にはちょっとつらいかも。

 

 

 

あらためて瑞渓院さんのご紹介を。

 

瑞渓院さんは今川家の生まれで、父親は今川氏親さん、母親は寿桂尼さん。

長じて北条家に嫁ぎ、夫は北条氏康さん、子どもは北条氏政さんや、今川氏真さんに嫁いだ早川殿など。

 

いずれも錚々たる面子であります。

関東戦国史終盤のまさにど真ん中に生きた女性という訳ですね。

 

201Xではろけっと砲をぶっ放す面白美人な扱いですが、

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その生涯は実家と婚家の二つの滅びにまみえる悲壮なものであったりいたします。

 

 

この本は瑞渓院さんおよび近縁の方々の目から今川家・北条家の歴史を追っていくものですが、瑞渓院さんの人柄を示すような文献は元より存在しませんので、紹介される史実自体はある程度関東史を知る方であればお馴染みの内容が多ございます。

(一方、初学者にとってはコンパクトに今川家・北条家を学べていいと思います)

 

 

その上で実に面白かったのが、今川家・北条家の系図や生年を、母親の年齢等も参考にしながらあらためて検証してはる序盤のページ。

 

 

まずは今川家

 

結論だけを取り上げますが、著者黒田氏の説によれば、今川氏親さんのお子様は……

 

 

とされております。

 

今川義元さん妾腹説にどうしても目が行きますね。

確かに玄広恵探さん同様、妾腹の子だけが出家していた……と見れば筋は通りますが。

今川家研究に一石を投じた形だと思いますので、今後の検証が楽しみです。

 

本の中では「今川家は家格が高すぎて嫁探しに難儀した、結果京から公家の娘を貰ったり調整に時間がかかった、そのため晩婚化の傾向があった」という考察がされていたのも興味深かったです。

こういう家格にまつわる苦労や難題って、当時の方々の判断軸を想像するのにリアリティを与えてくれる感じがしていいですね。

 

 

 

続いて北条家

 

北条氏康さんのお子様方は……

 

  • 北条氏親(1537)……瑞渓院実子
  • 北条氏政(1539)……瑞渓院実子
  • 七曲殿 / 北条氏繁妻(1541頃)……瑞渓院実子
  • 北条氏照(1542)……瑞渓院実子
  • 千葉親胤妻(1542頃)
  • 北条氏規(1545)……瑞渓院実子
  • 長林院 / 太田氏資妻(1545頃)
  • 早川殿 / 今川氏真妻(1547頃)……瑞渓院実子
  • 北条氏邦
  • 上杉景虎
  • 浄光院殿 / 足利義氏妻(1555頃)
  • 北条氏忠(1555頃)……養子
  • 北条氏光(1557頃)……養子
  • 桂林院殿 / 武田勝頼妻(1564)

 

とする説を唱えられております。

 

印象的だったのは、北条氏邦さんが妾腹ではないか、但し本人の実績からどんどん北条兄弟の中での序列が上がっていったのではないか……という説と、嫡子北条氏親さん&三男北条氏照さんの名前は今川氏親さん&今川氏輝さんから取ったのではないか……という説。

 

しかも氏照さんに氏輝さんと同音の名前をつけた背景には、「実家今川家の当主に妾腹の義元がついたのが気に入らぬ」みたいな心情があったのではないか……と想像されている場面は思わず微笑んでしまいました。

検証のすべはありませんけれども、実際にあったかもしれぬ心の働きに思えなくもなくて楽しいですね。

 

 

本の中盤・終盤では今川家・北条家が滅びに向かっていくのを追いかけていく形になりますので、瑞渓院さんの立場はどうしても哀調を帯びてまいります。

 

駿河から逃れてきた今川氏真・早川殿夫妻をかくまい(長生きしはりますけどね)。

息子の氏政さんは武田家とのアレで離縁する羽目になり。

秀吉さんに囲まれて降伏寸前の小田原城の中、瑞渓院さんと鳳翔院殿さん(北条氏政継室)は同日にお亡くなりになるのです(自害でしょうか)。

 

家格の高い武家に生まれた娘として、大国に嫁いだ正妻として、その生を毅然と全うしたような印象を受けますが……

滅びの近くに位置した女性のあわれを思わずにはいられません。

 

 

 

上記のような新説やあわれに出会えますし、比較的ライトな内容の本でもありますので、関東史のファンにはいいのではないでしょうか。

 

こうした家族の検証が畿内史にも波及してきてくださいますように。

史料が多く残っている家はいいなあ。

 

 

「今川のおんな家長 寿桂尼 感想」黒田基樹さん(平凡社) - 肝胆ブログ

 

 

 

 

「ヘンリ・ライクロフトの私記」ギッシングさん / 訳:平井正穂さん(岩波文庫)

 

ギッシングさんによる「ヘンリ・ライクロフトの私記」が現実からのしばしの遊離を楽しめてかんたんしました。

イギリス版、あるいは近代版の徒然草のような趣も。

 

ヘンリ・ライクロフトの私記 - 岩波書店

 

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波乱ある人生を送った苦労人ギッシングさんが最晩年に書き上げた随筆風小説です。

辛く貧しい生活を送っていた作者が描くこの本は、ひょんなことからけっこうな額の年金を受け取る権利を手に入れた老小説家「ヘンリ・ライクロフト」氏が田舎に隠棲して日々の思いを綴った私記、というもの。

あたかもギッシングさん自身が大金を得て穏やかな田舎暮らしを手に入れたかのような内容なんですね。

作者の願望か、生まれ変わったらこんな暮らしを送りたいなのか、あるいは自身の境遇への慰めか、はたまた救済か……などと考えてしまいます。

 

 

 

ヘンリ・ライクロフト氏の私記は四季別に収められておりまして、季節ごとの自然を綴る文章がたいへん美しい。

 

春。

近頃は毎朝同じ方面を散歩するのだが、実は若い落葉松の植林を見るためである。若い落葉松が現在装うている色ほど愛すべき色はほかにはない。私の目を喜ばせるとともに生気を吹き込んでくれるような気がする。そこからにじみ出るなんともいえない力が私の心の中にしみこんでくるのである。あっけなくその色は変わることだろう。すでに若々しい輝くばかりの新緑は夏の落ち着いた色合いに変わり始めたように思う。落葉松が無類の美しさを示すのはごくわずかな期間だけなのだ。来る春ごとに、幸運にもその美しさを見ることのできる人は幸いなるかなである。

 

夏。

日曜の朝だ。地上の美しいあらゆるものの上に、この夏になって、まだかつてないほどのすがすがしい、柔らかい空が輝いている。窓は開け放たれ、庭の木や花の上に太陽の光が明るく輝いているのが見える。私のためにうたってくれている鳥の声もいつものように聞こえる。時折、軒端に巣をつくっている岩ツバメがさえずりもせずにすっと飛んでゆく。教会の鐘はもう鳴り始めた。遠近で鳴る鐘の音色を私はすっかり覚えている。

 

秋。

夜明けに私は窓の外をみた。空にはそれこそ手のひらほどの大きさの雲一切れさえみられなかった。木の葉は、露の上にきらめく神々しい朝の光りをうけて、歓喜にむせぶように静かにうちふるえていた。日没の頃、私はわが家の上の方にある牧場に立って、真っ赤な太陽が紫のもやの中に沈んでゆくのをみた。私の背後のスミレ色の空には満月が昇ろうとしていた。日時計の影がゆっくりまわっていた日がな一日なんともいいようもない美しさと静けさが流れていた。秋がこれほど壮麗な色彩に「にれ」や「ぶなの木」を染めたことはいまだなかったように思う。壁をおおう木の葉がこんなに真紅に輝いたことも、かつてなかったと思う。こんな日は散歩にはむかない。目に映ずるもの一つとして美ならざるはなしといったような、青青と、また黄金色にてりはえる大空の下では、漠々たる静けさのうちに「自然」に溶けこむことができればそれで充分なのだ。

 

冬。

春の光りを待ち焦がれて、私は近頃はブラインドを上げたまま眠ることにしている。目がさめたとたんに空が眺めたいと思うからである。今朝、私はちょうど日の出前に目がさめた。大気は静かであった。西の方にあたって淡いバラ色の光りが漂っており、それが東の空の快晴を予言していた。雲一片みることもできなかった。そして、私のすぐ眼前には、まさに地平線に沈もうとしている三日月が輝いていた。

快晴の見込みは当たった。朝食の後、私は炉のそばでじっと坐っていることができなかった。全く、火などはほどんど必要ではなかった。太陽に誘われて私は家を出てゆき、湿っぽい小径を午前中歩きまわり、大地の香を心ゆくばかり楽しんだ。

帰途、今年最初の「きんぽうげ」をみつけた。

 

などなど、静謐で清浄で、自然の恵みあふれる文章がとても気に入りました。

 

この私記には、貧困生活、老いと死の受容、一方で若き日々への慕情などなど……人生のリアリティを語る名文も多いのですが、私はそういうシリアスな思索・人生観を踏まえた上での静かな自然描写がいちばん心に残りましたね。

 

年を取ってくると色々考えたり思い出したり表したくなったりするものですが、そういった能動的な心の働きよりも、自分のまわりにあるもの、移りゆくものを受け容れる受動的感謝的な心のありように惹かれるのです。

 

もちろん現実は受動的でなんていられなくて、自らきびきび能動的に生きていかなきゃいけないのですけれども、だからこそこうした現実離れした設定の隠遁随筆風物語に癒されるものがあります。

農村でひとり静かに本を読んだり散歩したりして暮らす内容の本と、異世界や過去の世界で無双する内容の本、心理的にはおおきく変わらないのかもしれない。

 

 

 

あと、この本の終盤で唐突に訪れるイギリス料理フォローラッシュが面白かったです。

 

イギリスの食物は質において世界最上のものであると思うのである。そして、イギリスの料理法は、気候温和な風土のものとしてはいかなる地方のものにもまさって健康的で美味なのだ。

イギリス流の料理法の目的とするところは、人間の滋養のもとであるなまの材料を調理して、健康な口に合うように、その生地そのままの風味を引き出すことにある。

どの肉も調理しているうちにそのもの本来の肉汁をだすのだ。これこそすべてのソースの中で考えられる最上のものである。「グレーヴィー」のなにものであるかはただイギリス人だけがしっている。ソースの問題について語る資格があるものはただひとりイギリス人あるのみ、といえるゆえんである。

われわれは薬味をあまり用いない。だが、用いている薬味そのものは人間が今までに作った最上のものである。しかもわれわれはその用いる「こつ」を心得ている。

野菜の話といえば、ちょうどいい加減にゆでたイギリス産のじゃが芋に匹敵するものが、はたしてこの人間の住む地上にありうるだろうか。

 

などなど……めっちゃ早口で言ってそうな勢いで何ページも熱く語ってはります。

他の事物のページではわりかし穏やかな知識人風なのに、イギリス料理のところだけ抜群の過激主義者になってはるのがイイ。

 

とは言え、こうした内容も、晩年のギッシングさんが異国フランスで生活苦に喘ぎながら故郷を渇望して執筆されていたものであることを思い起こせば……ビターです。

 

 

それにしても、「素材の持ち味を活かす」であったり、先ほど取り上げた「四季の恵みを喜ぶ」であったり、他のページでもしばしば登場する「島国イギリス独自の文化への誇り」であったりと、イギリス文学って日本人にも共感しやすいワードがしばしば出てきて興味深いですね。

 

 

紹介は尽きませんが、なんしか一人きりの時間を豊かにしてくれる本だと思いますのでとてもおすすめですよ。

 

何はともあれギッシングさんの御魂が安らかに眠ってはりますように。

 

 

「アナバシス 敵中横断6000キロ」クセノポンさん / 訳:松平千秋さん(岩波文庫) - 肝胆ブログ