肝胆ブログ

かんたんにかんたんします。

「利休聞き書き「南方録 覚書」全訳注」筒井紘一さん / 原著:立花実山さん(講談社学術文庫)

 

 

千利休の「わびの思想」を伝える書……とされている「南方録」にかんたんしました。

 

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千利休が確立した茶法、茶禅一味をめざす草庵茶の精神を伝える『南方録』は、利休の高弟南坊宗啓が、利休居士からの聞き書きをまとめたものとされる。経済の発展とともに茶道が広がりを見せた元禄期、筑前福岡藩黒田家の家老、立花実山によって見出され、その自筆本が伝世する。本書はその巻一で、利休の茶法の根本が書かれた、「覚書」の全訳注。その精神性と美意識を端的に伝える、平易な現代語訳とわかりやすい解説。実山自筆書写本を底本とする原文は、総ルビ付きですらすら読める。

 

 

南方録。

茶道を学んでいる方には有名な書籍です。


もともと知られていた原典の由来としては、堺南宗寺の塔頭「集雲庵」第二世の南坊宗啓さんが千利休さん本人から聞き取った茶の湯作法の秘伝ということでした。
そのため、かつては「茶道聖典」とまで言われていた時代もあったそうです。


ところが、昭和中期から研究者たちによる真偽検証が入った結果、現在は「南坊宗哲さんなる人物は実在せず」「元禄時代の筑前福岡藩家老 立花実山さんが利休百年忌のタイミングで創作したもの」であることが判明しております。


残念……キツい言い方をすれば「偽書」でございました。
茶道の世界でも着実に一次史料ベースの検証が進んでいるんですね。

南宗寺の名を借りたということは、それだけ当時から茶道界では南宗寺がビッグネームだったのでしょう。
私の中で堺の南宗寺は三好長慶が父元長を供養するために創建した寺」ですが、一般的なイメージは千利休が修行した寺」あるいは大坂の陣で戦死した徳川家康が葬られた寺(マジかよ)」または「近所のかん袋のくるみ餅がおいしい」であることは否めません(笑)。

 

 

とは言え、この「南方録」の価値が崩壊したかといえば、そんなことはありませんよ。

利休さんの没後100年の時を経ているとはいえ、この書は元禄時代の茶の湯関係資料を駆使して創作されたことも明らかになっておりまして。
千利休時代の息づかいをかなりの確度で現代に伝えてくれる貴重な書であることには変わりないのです。


少し長いのですが、著者筒井紘一さんの学術文庫版あとがきを一部引用いたします。

同時代的に利休茶法を教えてくれる代表的なものがあるとするならば、利休消息や茶会記、さらには『山上宗二記』を挙げることもできよう。また、江戸時代に入ると、『長闇堂記』をはじめ『茶湯秘抄』『茶道四祖伝書』などにも利休の逸話は記載されているが、利休に特化した茶書ではない。
『南方録』が発見されたとされる元禄三年(一六九〇)より十年ほど以前の延宝八年、利休時代の『利休茶湯書』(六巻六冊)なる本が出版される。巻一は「利休七荘秘伝茶湯書」の内題をもつ手前、巻二~四は書院、棚、長板、台子手前、巻五は「利休聞書秘法」、巻六は利休百会の茶会記である。この構成を実山が知らないはずはなく、『南方録』七巻を編集する際の参考にしたと考えられる。
こうして成立した『南方録』は、利休茶法を多方面から解明しようとしてまとめられた茶書であり、『利休茶湯書』を大きく凌駕することができたのであった。それゆえにこそ、『南方録』は茶道史にかがやく重要な茶書なのである。唯一、利休百年忌の元禄時代にまとめられた書であるということを除けばのはなしであるが。

 


歴史研究における「太平記」や「甲陽軍鑑」の位置づけに近いのかもしれません。

一次史料とは言い難いものの、肝心の一次史料が乏しいこともあって、注意を払いつつ重用されている。
何より、内容がおもしろいことまでは否定できない。

そんな印象の本でございました。

 

 

 


本の中身に移ります。

一  宗易ある時、集雲庵にて茶湯物語ありしに
二  宗易へ茶に参れば、必ず手水鉢の水を
三  宗易の物がたりに、珠光の弟子、宗陳・宗悟と
四  客・亭主、互の心もち、いかやうに得心して
五  露地に水うつ事、大凡に心得べからず
六  露地の出入は、客も亭主もげたをはくこと
七  小座敷の花は、かならず一色を一枝か二枝
八  花生にいけぬ花、狂歌に、花入に入ざる花は
九  夜会に花を嫌ふこと、古来の事なりしを
一〇 或人、炉と風炉、夏・冬茶湯の心持、極意を
一一 暁の火あいとて大事にす。これ三炭の大秘事
一二 惣じて朝・昼・夜ともに、茶の水は暁汲たるを
一三 易云、暁会、夜会、腰掛に行燈を置くべし
一四 易云、雪の会は何とぞ足あと多くならぬやう
一五 雪の夜会には、露地の燈籠は凡とぼすべからず
一六 ー深三畳と、長四畳、根元を分別すべし
一七 小座敷の道具は、よろづ事たらぬがよし
一八 名物のかけ物所持の輩は、床の心得あり
一九 掛物ほど第一の道具はなし
二〇 小座敷の料理は、汁一つ、さい二か・三つか
二一 飯台はつくゑのごとくして
二二 葉茶壺、小座敷にもかざることあり
二三 捨壺といふ事あり。小嶋屋道察に真壺を 
二四 風炉にて炭所望して見る事なし
二五 つるべはつくばひて下にをき、その所を
二六 真の手桶は手を横に置、つるべは手を竪にをけ
二七 不時の会には、いかにも秘蔵の道具など
二八 小座敷の花入は、竹の筒、籠・ふくべなどよし
二九 めんつのこぼし、とぢ目を前にせよ
三〇 せい高き茶入は袋を下へ、ひきゝ茶入は
三一 野がけ・狩場などにて茶会を催すことあり
三二 野がけは就中、その土地のいさざよき所にて
三三 紹鴎わび茶の湯の心は、新古今集の中
三四 右覚書、心得相違も候はゞ 

 

以上三十四の項目について、「古文ベースの原文」「現代語訳」「解説」がつけられております。

原文も元禄期の文章ですので平安・鎌倉期などの文章に比べると読みやすいですね。
論語のような感じで、「●●と質問しました。利休いわく~~と答えてくれました」という形式の文章になっていて内容も理解しやすいと思います。

 


個人的に感じ入ったものを幾つか紹介いたします。

 

七 小座敷の花は、かならず一色を一枝か二枝
   ――わび茶の花は軽く生ける

小座敷の花は、かならず一色を一枝か二枝かろくいけたるがよし。勿論花によりてふわふわといけたるもよけれど、本意は景気をのみ好む心いやなり。四畳半にも成りては、花により二色もゆるすべしとぞ。


【現代語訳】

利休が言われました。
「小間の茶席の花は、必ず一種類の花を一枝か二枝ぐらい、軽く生けてあるのがよろしい。もちろん、花によっては、ふさふさとたっぷりめに生けるのもよいけれど、軽く生けるということの本意は、わびた小間の席では見た目の華やかな様子ばかりをよいと思って生ける心はよくないということです。四畳半にもなれば花によっては二種生けるのもよいでしょう」

 

解説では、村田珠光さんのお言葉「花の事 座敷のよきほとかろかろと有べし」も紹介されております。
「かろかろ」という語感がいいですね。

座敷の広さに応じて軽く生ける。
しみじみとした味わいのある姿勢だと思います。

この他、解説では千宗旦さんの椿のエピソードも紹介されております。
とてもいいお話ですので、興味のある方は当書などで調べてみてください。

 

 

十四 易云、雪の会は何とぞ足あと多くならぬやう
    ――雪の茶会の心得

易云、雪の会は何とぞ足あと多くならぬやうに心得ばし。とび石のうへばかり水にてそゝとけすべし。手水鉢の水は入れずしてはかなはぬ事なれば、見よきやうに水をかけてけすべし。但、手水鉢の石、またはその辺りの木どもに景気おもしろく降つみたるには、そのまゝ置て、手水は腰掛に片口にて出すもよし。

十五 雪の夜会には、露地の燈籠は凡とぼすべからず
    ――雪の夜会には灯籠をともさない

雪の夜会には、露地の燈籠は凡とぼすべからず。雪の白きにうばはれて見所なく光うすし。但露地の木だち・様子によりて一向にも云がたし。

 

ともに雪の日の茶会についてです。

なるべく足あとをつけない、灯籠のあかりをともさない。
客を白い雪景色でもてなすための真摯な心づかいなのでしょう。

 

 

十八 名物のかけ物所持の輩は、床の心得あり
    ――名物の掛物に対する床の心得

名物のかけ物所持の輩は、床の心得あり。横物にて上下つまりたらば床の天井を下げ、竪物にてあまるほどならば天井をあげてよし。別のかけ物の時、あしき事少もいとふべからず。秘蔵名物にさへ格好よければよきなり。絵には右絵・左絵あり。座敷のむきによりて、床のつけやう心得て作事すべし。


【現代語訳】
名物といわれる掛物を所持する茶人には、床の間の心得が必要です。その掛物が横物の軸で、上下丈が短ければ、床の天井を下げて調整するのがよい。また竪物の掛軸で、長さが余るほどであるならば、天井を上げるのがよいでしょう。他の掛物をかけた時に具合が悪いのは、少しも気にすることではありません。秘蔵する名物の掛物にさえかっこうがよければそれでよいのです。また掛絵には右絵と左絵というものがあります。座敷の向きによって床の位置を考えながら建築しなければなりません。

 

すごい……。

名物の掛軸に合わせて茶室を建てろ、とのお言葉です。
先人の手を経てきた「名物」というものに対する心構え、緊張感が伝わってくるかのようです。

 

 

 

二二 葉茶壺、小座敷にもかざることあり
    ――小座敷の茶壺の飾り方

 
解説の余談が面白かったところなので、原文・訳は省略します。


筒井紘一さんの解説によれば、茶壺は茶道具の中でもっとも浮沈が激しいそうです。

書院茶時代には唐絵ほど重く扱われず、
わび茶時代(利休時代)には珍重されたものの、
江戸時代には再び軽く扱われるようになり。

現代では流通と冷蔵庫の発達により茶壺の存在意義が……とのことで。

なるほど……確かになあ。
本当に、冷蔵庫とはドえらい発明ですね。

 

 

三〇 せい高き茶入は袋を下へ、ひきゝ茶入は
    ――茶人の袋の外し方

せい高き茶入は袋を下へ、ひきゝ茶入は茶入をうゑへ。


【現代語訳】

背の高い茶入は、袋の方を下に抜くのがよく、背の低い茶入は、茶入の方を上へ持ち上げながら袋から抜くのがよいでしょう。


おお……こんなところにまで秘伝が。

解説でも

茶入を動かすか、仕服(袋)を動かすかの違いである。この微妙さが茶道の真骨頂ということになるのだろうが、その妙味は私にもわからない。利休に聞いてみたいものだと考えている。

と正直に「分からない」と仰っていてかんたんしました。


背の高い茶入は袋の方を抜くことで動じない「デン」とした感じを見せて、
小さな茶入は「プリッ」とかわいい感じに袋から出すということなんですかね。

うん、分からない(笑)。

 

 

 

三三 紹鴎わび茶の湯の心は、新古今集の中
    ――わびの心

 
長い文章なので引用は省略します。

人口に膾炙しているエピソード……

 見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕ぐれ(藤原定家

 花をのみ侍らん人に山ざとの 雪間の草の春を見せばや(藤原家隆

の歌が茶の湯の真髄を表している、というものになります。

 

当時の侘び数寄において、新古今はおおきな影響を与えていたようですね。

同時代に流行していた連歌でも、新古今和歌集をベースに歌を学び、案を練ることが多かったそうです。


この辺りはとりわけ平安王朝文化からの距離を感じるところですね。

 

 

 

 

以上、南方録のかんたんな紹介でございました。



それにしても、あらためて千利休さんは謎が多いお人だと思います。

茶会記の出席記録を除けば、秀吉期以前の史料なんてほとんどないですもんね。
基本的には市井の人なので仕方ないのですが。


現代に残る利休さんの逸話は三千家の方々由来のものが多いようですし、そのせいか宝心妙樹さん(利休さんの前妻で三好長慶の妹)や千道安さん(利休さんと宝心妙樹さんの息子で三千家とは別系統)の存在もやや乏しめられがちな印象があります。

宝心妙樹さんとは夫婦仲が悪かったとか、道安さんは乱暴だったとか。

もちろん事実そうだったかもしれませんし、仮に脚色が入っていたとしても三千家の周辺の方々が勝手に「忖度」しただけなんでしょうけど。

 

利休さんの若い頃の史料でも発見されれば、戦国期の堺・畿内の雰囲気がよく分かって絶対おもしろいと思うんです。

そのうちひょんなところで発見されますように。