日経系列のWebサイト「日経BizGate」で、「豊臣秀吉・徳川家康の決戦が天正大地震で流れた説」が紹介されていてかんたんしました。
※記事では、ほかに慶長伏見地震や慶長三陸地震
(伊達政宗さんエピソード)も紹介されています
以前、NHKでも取り上げられていた説ですね。
けっこうありそうな話だと思います。
1584年の「小牧・長久手の戦い」、家康さんは秀吉さんに野戦で一勝したものの、信雄さん対応など外交・調略面では秀吉さん優位で推移し、結局は互いに勢力を保ったまま講和する運びとなりました。
その後、秀吉さんは1585年に紀州・四国征伐に成功し、力をぐんぐんと増していくことになります。
で、1586年になって秀吉さんは家康さんを「今後こそ」ボコボコにしてやろうと準備を進めていたのですが。
このニュースで紹介されている「天正大地震(マグニチュード8・最大震度6クラス)」が起こってしまい、前線基地の大垣城が全壊するなど被害は甚大で、仕方なしに方針転換して家康さんと和解交渉を進めることになった、という説になります。
(家康さんの三河地方のダメージは比較的軽かったようです)
和睦路線に転じてからは、秀吉さんの妹・母親を家康さんのところに送って……という有名なエピソードに繋がっていく訳です。
戦国系の創作作品では「小牧・長久手の戦い」と「徳川家康が豊臣政権へ臣従」は一連の流れとして語られることが多いのですが、実際は二年というけっこう長い期間が挟まっていて、その間に紀州・四国征伐やこの大地震といった大イベントが起こっていたということであります。
※ちなみに小牧・長久手の戦いの裏番組として。
畿内では根来・雑賀衆が岸和田城に攻め寄せてきて
中村一氏さんたちが苦戦していたところ、無数の蛸が
海から現れて豊臣方を守ってくれたという楽しい伝説が
ございます。
(南海電鉄の蛸地蔵駅はこの伝説に由来しています)
※よく「家康さんは織田信雄さんにハシゴを外された」と
言われますが、結果論から言えば真に「ババを引いた」のは
信雄さんと一緒に秀吉さんを圧迫していた長宗我部元親さんや
根来寺・雑賀衆の皆さんということです。
「天災が導く人の歴史」という視点がじわじわ根付いてきているように思えます。
東日本大震災で当時の某政権が支持率を大きく落とした記憶も新しいですから、現代人にとってもスッと理解しやすいのでしょう。
自然災害の多い日本では、天災が人の歴史に大きな影響を与えてきたという視点は蓋然性が高いのではないでしょうか。
こじつけ気味かもしれませんが、平家凋落時には養和の飢饉がありましたし、執権北条家がヘイトを集めるきっかけには鎌倉大地震の影響もあったように思えます。
また、細川晴元政権の崩壊……木沢長政さんや三好長慶さんが勢力を伸ばした背景には天文期の大飢饉・大水害の影響も大きかったんじゃないかなとも考えております。
戦国期にも「天道」思想が流行したそうですが、日ごろの行いが悪ければ天によって罰せられる、お天道様は見ていますよ、という言い回しカルチャーはこうした歴史から培われてきたのかもしれません。
冷静に考えたら政治家の振る舞いと地震水害飢饉に関係があるはずはないんですが、やっぱり今も昔も庶民は「政治が悪い」と思っちゃうもんなんでしょう。
というか、日頃は漠然としている政治への不満が、天災を契機に表面化してくるということなんでしょうね。
ニュースの記事に戻って、少なくとも天正大地震(や慶長伏見地震)で秀吉さんが損をして、家康さんが得をしたというのは間違いないように思えます。
でも、こうした不幸が秀吉さんによる「浪速のことも夢のまた夢」の情趣をいや増していますし、こうした幸運が家康さんによる「江戸時代の泰平」に繋がっていったと思えば、否定のしようもif妄想のしようもなく「まあこれでよかったんかなあ」という気分になっちゃいますね。
つくづく歴史ってのは繊細なのに丈夫なものです。
現代もいろいろある世の中ですが、大地震や大水害がこれ以上起こりませんように。
政治はともかく、経済や庶民生活へのダメージはつらいんですもの。
起こるなら日中の火を使っていない気持ちも落ち着いている時間帯に起こって、被害が拡大しない感じでなにとぞ。