'17年11月以降、ひたすら悲しかったり腹立たしかったりで晴れやかな気持ちになれなかったのですが、だんだんどのような報道も発言も「うんうん、それもまた相撲だね」という気持ちで受け入れられるようになってきたことに気づいてかんたんいたしました。
たぶん、初場所を素直に楽しみたいという心底からの願望がそうさせたのでしょう。
この記事は特定の誰かに味方するような内容ではありません。
一連の事件を通して「横綱とは、権威とは」ということを考えたのでメモとして書き残しておきたい、というものです。
白鵬のことも好きなので白鵬寄りに映るかもしれませんが、そこは本旨ではないです。
私は「特に嫌いな力士はいない」「むしろ好きな力士だらけ」という相撲ファンです。
日馬富士事件の現場にいた力士のことも加害者被害者傍観者含めて全員好きですし、八角理事長も貴乃花親方も好きですし、好きなシニア男性のタイプは北の富士さんと答えることが多い感じです。
日馬富士の引退は極めて悲しいものの妥当な結果だと思っています。
白鵬の張り差しやかち上げはアリ派ですが、否定派の気持ちも分かりたいスタンスです。
白鵬のことが好きだからアリと言っているだけかもしれないと自覚しています。
相撲協会内の対立はどっち派でもなく、どっちも何か言うたびやるたびに損するだけなんだから黙っておけばいいのにと思っています。
一連の報道でいちばん腹が立ったのはワイドショーでも関係者発言でもなく、「お前ぜったい相撲興味ないやろ」というビジネス系知識人が「私は事件をこう見る」みたいなコラムを一斉に書き散らかしたことですが、さいきんはそれも愛しいと思い始めています。
報道などを見て、白鵬や日馬富士のことを好きか嫌いかによらず、あるいは相撲に興味があるかないかによらず、「横綱って大変だな」と思った人は多いんじゃないでしょうか。
私もあらためてそう思いました。
以前、武田葉月さんの著書「横綱」を読んだときも思いましたけど……
「横綱って、割に合わない立場」ですよね。
降格不可。
板子一枚下は引退という。
力士寿命を縮める、結果として生涯収入を減らすかもしれないのが横綱昇進です。
(長く大関をやった方が得かもしれない問題)
朝青龍以前、それどころか大正昭和以前の時代から、成績だの品行だので隙あらば世間様にバッシングされます。
横綱といえど20-30代の若者、彼らはファンやマスコミの一言一言に一喜一憂し、ストレスを抱えまくっている素顔を持ってもいるのです。
しかも求められるのは「横綱相撲」。
成績だけでなく、勝ち方にまで注文が入ります。
軽量・業師系の力士は横綱に昇進したらどないしたらいいんだと。
……こんなことを書いていると横綱を目指す力士が減ったりして。
ちょっと前までは、こうした事情を踏まえれば「必要以上に横綱を責めるのは気の毒だ、やめてあげなよ」と思っていて、だからこそ行き過ぎの見られる報道には憤懣やるかたなかった次第なのですが。
近頃は「様々な思いを寄せられるのも横綱の仕事」と思うようにもなってきており、単に横綱を気の毒に思うというよりは「同情はするけど、頑張って耐えてください」と考え始めていて、だからこそ一連の報道もそんなに気にならなくなってきています。
あくまで私のイメージですが。
力士はヒーロー。
横綱はヒーロー+権威。
相撲協会は権威。
そして……
ヒーローとは加点主義
権威とは減点主義
というのが世の常なのかな、と思い至り。
お相撲さんたち自身がどう思ってはるかは分からないですけど。
力士ってヒーローですよね。
常人とは思えないほど大きくて、強くて、感動するような取組を見せていただける。
ある程度の範囲内であれば、ちょっとくらい抜けていても暴れん坊でも酒癖が悪くても金にだらしなくても注目されることは少ないです。
大事なのは、人々の印象に残るような一番を増やし、かつ番付を上げていくことです。
高揚やカタルシスやドラマを求められる存在がヒーロー。
ところが、横綱に昇進すると、「超一級ヒーロー」であることに加えて「伝統権威の継承者」であることも強く求められるようになってまいります。急に。
相撲興行の顔。
他の力士とは注目度が段違い。
お客さんによってヒーロー性を求める人もいれば権威の保持を求める人もいる。
お客さんによって求めるポイントの塩梅は違う。
ヒーロー的な加点主義(≒成績)文化に慣れている力士であっても、
権威としての減点主義文化には慣れておりません。
権威って……
築く・回復するのには長い時間を要するのに、崩れるのは一瞬だったりしますよね。
相撲界に限らず。
宗教界の偉い人だとか、文化芸術界の偉い人だとか。
それこそセクハラひとつで一発アウトだったりするじゃないですか。
どんなけその道の大家であっても、やっぱり醜聞を起こした権威に人はついてこない訳であります。
権威を維持するのはいつだってどこだって緊張感を伴います。
ヒーローはちょっとくらい迂闊なところがあっても愛されますが、権威という存在は一分たりともしくじりがあってはならない。
完全、至高、無欠を求められる存在が権威。
権威は“無傷の玉”であり続けなければならないのです。
こういうことを考えていると、横綱が受けるバッシングというのも大局的に見れば意義がない訳ではない、むしろ横綱は進んで向き合うべきだ、かばわれるのはよくとも本人が不貞腐れるべきではない、と思えるようにもなり……。
結果として、かばう人、非難する人、両方の正義がなんとなく受け入れられるようになって参りました。
(あくまで私個人の内面の話です)
権威が減点主義……という私見に沿って言えば。
相撲協会がなんでも内々で済まそうとするのも、
白鵬が勝利にめっちゃこだわるのも、
「減点を隠す・減らす」という意味では無理のない話と思えたりもします。
一方で、減点主義というのは厳しいもので、「隠すのが下手」「減らし方に品がない」と思われてしまったら結局減点を喰らうという……。
本当に権威の守護者って大変であります。
そもそも、20-30代の若者にこうした神の域に近い権威の役割を担わせようとすること自体に無理があるのでしょう。
……いや、40代になっても60代になってもぜったい無理だわ。
相撲協会に限らず、常人の組織はそんな上手いことやっていけないし。
神ならぬ人の身、無傷の玉なんてのはファンタジーに過ぎないのでしょう。
逆に「品格抜群の者のみが横綱をバッシングしなさい」も現実には成り立ちません。
でも、無理とは分かりつつ。
人の世には権威が必要で、権威者は有象無象の声を受け止め続けなければならない。
しめ縄を腰に巻く以上、神様と同じように人々の祈りも不満もバッシングも受け止め続けなければならないのでしょう。
品のない言い方をすれば、横綱の高い名誉・収入とは人身御供への賽銭なのかもです。
以上、だらだらと迂遠なことを書いてきましたが、要は「どっちの言い分も分かる。その上で、気の毒やけど横綱は耐えなきゃ……」という風にさいきんは思っている次第です。
言い換えれば、「白鵬や日馬富士のことは好きだけど、好きだからといってかばう一辺倒なのはよくないよね」と本音ベースで受け入れられるようになってきました。
(もちろん、誰に対しても根拠のないバッシングは好きではありません)
あと、相撲協会関係者は権威サイドらしく内部の醜聞を外に出さず内々で「上手に」処理していけるような見識・実力・組織力を身に着けてもらいたいと願っております。
権威の内紛や分裂ほど悲惨なものはありません。
学べ、中世史を。
相撲という世界ひとつとっても、人間世界全体の縮図であったりしますね。
いちばんリスクフリーなのは無責任に言いたい放題できる一般人。
でも、一般人は他の世界で大量にストレスを受けているので、ヒーローの活躍に自分を重ね合わせたり、権威に文句のひとつでもぶつけたりせねば生きていけない存在。
そして権威とは、内外のあらゆる人々から“試される”“誰かがやらねばならぬ”役割。
無事に務めればリターンは大きいがリスクもめっちゃ大きいよ、と。
世の中、特定の誰かだけがめっちゃ楽をしてたり美味しい思いをしてたりする訳ではないのかもです。
横綱という大任を果たした人たちのその後が幸せなものでありますように。
なんだかんだで相撲がこれからも盛り上がっていきますように……。