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かんたんにかんたんします。

大阪府貝塚市「林宝泉堂のたこぼうずもなか」と「蛸地蔵=本願寺顕如説」

 

差し入れでいただいた貝塚銘菓「たこぼうずもなか」がおいしくてかんたんしました。

 

www.city.kaizuka.lg.jp

 

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(写真は上記貝塚市HPより引用)

 

 

こちらのもなかは貝塚市まで買いに行くか、貝塚市ふるさと納税するかしないと食べられない幻の和菓子」と一部で言われているそうです。

 

 

私も実際に食べるのは初めてでした。

 

 

写真のとおり「たこ」の形をした珍しいもなかで、けっこうボリューム感があります。

 

「重たそう」と思いながら一口食べてみると……

 

\パリッ/

 

おお、皮が薄いです。

香ばしくてパリサクしたタイプ。

パサパサ粉が出るような仕上がりでないのが嬉しい。

 

 

更に、中のあんこが思いのほか「しっとりした抑え目の甘さ」

あずきの信頼感ある風味は立たせつつ、砂糖っけはセーブしてはります。
ボリューミィさとの釣り合いを踏まえた品のよい調味になっていますよ。

 

皮の軽い口当たりも相まって、これなら1個ペロッとイケる。

2-3個くらいなら続けて食べても飽きずにおいしい。

 

 

ええやん……!

 

フォトジェニックなビジュアルも含め、知る人ぞ知る銘菓と呼ばれるだけあります。

子どもも喜んで食べていましたし、手土産にしたらみんなに喜ばれること間違いなし。

 

 

 

 

 

さて、ここからは余談です。

 

 

このもなか、なぜ「たこ」の形をしているのかというと……

 

お隣岸和田市「蛸地蔵伝説」を元ネタにしているからです。

 

※以前も少し触れたことがあります

 「天災が導く人の歴史」日経BizGate 松本治人さんの記事より - 肝胆ブログ

 

 

詳しくは岸和田市のHPでも見ていただきたのですが、

岸和田のむかし話3 蛸地蔵の話 - 岸和田市公式ウェブサイト

 

ざっくり伝説のハイライト部分を説明しますと。

 

 

天正十二年(1584年)。

羽柴秀吉さんと徳川家康さんの小牧・長久手の戦いのさなか。

 

あまり知られていませんが、秀吉さんの本拠大坂は家康さんと結んだ雑賀衆根来衆に攻め寄せられていて大ピンチでございました。

(大坂では黒田官兵衛・長政親子が奮戦したりもしています)

 

 

この時、対紀州前線となる岸和田城を守備していたのは中村一氏さんと松浦宗清さん

 

中村一氏さんは秀吉さん譜代の猛将で、この紀州戦線や小田原征伐山中城一番乗り)などで功を立てたお方であります。

北条家の名城「山中城」と三島市の「美観」 - 肝胆ブログ

江戸時代にお家が改易されたこともあってか現代ではあまりメジャーではありません。

 

松浦宗清さんは詳細よく分からないのですが、十河一存さんの次子「松浦万満(光)」さん(三好義継さんの弟)を暗殺して岸和田城を乗っ取った方とも言われております。

戦国時代、岸和田城は細川家の和泉守護代「松浦家」が治めていて、細川晴元さん時代は「松浦守」さんが活躍してはったのですが、その後は三好家の傘下に入って十河一存さんの子を養子に迎え入れ、三好家凋落後はまた内紛が起こって……ということなんでしょうか。

宗清さんも関ヶ原後に改易されちゃったためか現代ではほとんど知られておりません。

 

 

で、一氏さんと宗清さんが頑張って雑賀・根来衆と戦っていたところ。

敵は大軍、岸和田城危うしとなったところで「海からタコが助けに来てくれて雑賀・根来衆を追っ払ってくれた」というのが蛸地蔵伝説の顛末なのです。

 

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岸和田市HPより引用。タコさんが奮戦している様子)

 

 

かなりシュールな伝説ですが、実際に一氏さんと宗清さんは小勢で雑賀・根来衆を撃退しておりまして。

もし雑賀・根来衆に岸和田を抜かれていたら大坂は大混乱に陥ったに違いなく、そうなったら小牧・長久手の戦況もえらいことになったでしょうから、これは大手柄と言ってもよいでしょう。

 

 

かくして400年以上が経過した現在。

岸和田や貝塚では中村一氏さんや松浦宗清さんのことは忘れ去られておりますが、なぜか代わりに「タコが地元を守ってくれた」という伝説が残っているというこれまたシュールな状況になっているようです。

 

 

どうしてこうなった。

 

 

 

 

「宗像教授伝奇考」的なことを言えば、伝説には何かしらの元ネタがあると考えた方が自然なのかもしれません。

史料には残っていなくとも、実際にタコのような何者かが一氏さん・宗清さんを助けたという出来事があったのでしょうか。

 

 

この時期、秀吉さんは配下武将をあちこちに動員しておりますので、羽柴家中の者による援軍ではないと思います。
(そうだったら記録に残るでしょうし)

「タコ……海からの援軍」ということで、淡路や讃岐から仙石秀久さんや十河存保さん(根来衆は父の仇だ)が駆け付けたというのもあるかもしれませんが、四国は長宗我部元親さんに滅ぼされる間際という情勢なので畿内まで兵を動かすのは難しそう……。

「三好康長最後の戦い」「小牧長久手で三好秀次さんがボロ負けしたので康長さんの功績は闇に葬られた」みたいなストーリーも思い浮かんだのですが、妄想の域は出ないというか説得力ゼロであります。

 

 

そこで、「タコ……坊主……」ということで、「宗教勢力の援軍」という筋が思い浮かびました。

この時期、根来寺なんかは秀吉さん上等のスタンスですが、高野山は去就を迷っていたりと、各宗教勢力によって羽柴政権にどう接するかが分かれておりました。

 

ところは岸和田城にほど近い一向宗寺内町貝塚」。

実はこの時期、貝塚には「本願寺顕如」さんがいらっしゃいました

顕如さんは有名な「石山合戦」後、大坂を離れ紀伊にいたんですが、紀伊も政情不安なので貝塚に移ってきていたんですよ。

 

更に本願寺の史料を見てみたら、まさにこの頃に顕如さんと中村一氏さんが贈り物を届けあうような交流があったことも記録されております。

 

顕如さんからすれば「少しでも秀吉さんに恩を売っておきたい」タイミング。
(小牧長久手後、顕如さんは大僧正に任じられたりしています)

加えて、長年の石山戦争や三河一向宗徒との関係などを踏まえれば「浄土真宗は秀吉方へ味方いたすと正直に名乗りたくもない」タイミング。

 

これは……本願寺勢力が「名乗るほどのものではありませんが」と言いつつ、岸和田城をこっそり助けてはっても不思議ではない気がいたします。

 

地元の人はうっすら分かっていたので、この経緯が形が変わって伝えられて別の地蔵信仰とも混ざって「蛸地蔵伝説」になっていった……と。

 

よし、それっぽいストーリーになりました。

やはり妄想の域は出ませんので、雑談としてお受け止め下さい。

 

 

 

 

たこぼうずもなか。

暗いところで写真を撮るとかなり印象が変わります。

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これは怖い。

こんなんが海から襲いかかってきたら雑賀・根来衆も逃げると思います。

 

 

 

いろいろ書きましたが、要はたこぼうずもなかは美味しいのでおすすめですよということです。

 

また貝塚土産にいただけますように。

自分でも水間寺見物とかも兼ねて買いに行ってみようかしら。

 

 

 

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