寄生獣を読んでいたら、なぜだか平成時代が終わることを強く実感してしまってかんたんしました。
いつにもまして主観的な文章になりますので、あまり共感いただけないかもしれませんが(笑)。
以下、寄生獣のネタバレを前提にしていますのでご留意ください。
寄生獣は平成の始まりとほぼ同時に始まった漫画で、元のコミックスベースで10巻、完全版コミックで8巻と、ほどよい長さかつ極めて高い完成度で完結いたしました。
連載時期は80年代の末から90年代半ばまでですね。
平成時代は西暦の世紀末・世紀始と重なっています。
あくまで私の受け止め方ですが、平成前半の90年代はバブル崩壊やオウム事件やノストラダムスなんかの影響もあって、「行き詰った人類」「文明社会の終末」みたいな空気感が当時共有されていたような気がします。
そんな中、同時代にセンセーショナルな登場を果たした寄生獣は……
グロ的なインパクトに加えて、
シンイチ……『悪魔』というのを本で調べたが……
いちばんそれに近い生物は やはり人間だと思うぞ……(ミギーさん)
であったり
……地球上の誰かがふと思ったのだ……
生物の未来を守らねばと……(中略)
人間1種の繁栄よりも生物全体を考える!!
そうしてこそ万物の霊長だ!!正義のためとほざく人間!!
これ以上の正義がどこにあるか!!人間に寄生し生物全体のバランスを保つ役割を担う我々から比べれば
人間どもこそ地球を蝕む寄生虫!!
いや……寄生獣か!
(広川市長さん)
であったりな衝撃的なセリフの数々によって、行き詰まりを実感していた平成前半人を強烈に揺さぶってくださったのでした。
同じように大ヒットしたエヴァンゲリオンも90年代の作品ですし、この頃は「人類に生きながらえる価値があるのだろうか」「世界の崩壊が近いのではないか」みたいな話をよく見かけた覚えがあります。
(「世紀末」という暦が有するパワーも相当大きかったんだろうと思います)
70年代の作品ですが「デビルマン」なんかも平成に入ってから読んだときの方が強く刺さってきたものです。
そんな時代の中、とりわけ寄生獣は飛び抜けた存在感を放っていて、平成前半の空気感を躊躇なく抉り出して突き付けてくるような作品だったのでした。
それから20年。
10年代の現在に寄生獣を読んでみると。
上で挙げたようなキツいセリフなんかよりも……
我々はか弱い
それのみでは生きてゆけないただの細胞体だ
だからあまりいじめるな
(田村玲子さん)
であったり
同じ構造の脳をもつはずの人間同士でさえ例えば
魂を交換できたとしたらそれぞれ想像を絶する世界が見え
聴こえるはずだ(ミギーさん)
であったりと、以前よりも「静かな」寄生獣世界の名セリフに頷くことが多く、そのことに静かな驚きを覚えました。
もちろん私自身の加齢によるところも大きいとは思うのですけど。
平成後半、00年代10年代に入ると「停滞期間」が延々と続き(日本だけですが)、いつしか停滞していることが常態になってしまって、逆に90年代にあった「行き詰り感」「崩壊感」は薄れてきたように思います。
その上で、「ロボットやAIの普及」「高齢化と人口減がもたらす社会の変化」みたいな未来(但しあまり明るくはない)の話題はますます身近になり、並行してあらゆる点で価値観の多様化と細分化は進み、我々が共有している空気は「終末は近い悔い改めよ」から、「諦めをはらんだ受容」「世界ではなく、自分の手が届く範囲を」に変容してきたように感じるんですよね。
寄生獣を読み進めながらそんなことをぼんやり考え。
最終巻に至って寄生生物たちが人間社会に溶け込み、シンイチさんも人類もそのことを消極的に受け入れて。
シンイチさんは世界がどうこうではなく隣にいる里美さんを守って寄り添って暮らすことを選んで……というクライマックスの流れが、平成が終わろうとしているイマの空気にたいそう相応しいなあとかんたんしたんです。
70年代のデビルマンが90年代の終局感をも捉えていたように、90年代の寄生獣が10年代の許容感をも捉えていたと言うと言葉が過ぎるでしょうか。
「平成とはどんな時代だったか」なんて普段考えることはないんですけど。
寄生獣を読んでいたら「平成前半はこうだったな」「平成が終わろうとしている近頃はこうだな」、そして「平成ってもうすぐ終わるんだったな」ということが妙にクリアに思い浮かんだという話でした。
誰しもがきっと、ふとした瞬間に時代を見詰めてしまうものなんでしょうね。
次の時代もよい時代になって、次の時代にも素晴らしい作品が数多登場しますように。