細川国慶さん……細川高国・氏綱派の有力一門武将による京都統治がニュースになっていてかんたんしました。
「細川国慶さんが」「三好長慶さんより前に」みたいな文脈にニュースバリューがつく時代になったんですね。
ニュースは、戦国時代の武将と京都の「町」が交渉して、配下軍勢の乱暴や略奪を禁止する文書「禁制」を発給した最古の事例が見つかった……というものです。
禁制は寺社等には昔から発給されていますが、「町」に発給されたのは戦国時代から。
言い換えれば、「町」も寺社等と同様、独自に行政にかけあうだけの交渉能力を有していたということなのでしょう。
昔の町内会にはパワーがあったのです。京都の町はいまもパワーありそうですけど。
商工業の発展や武家秩序の後退等を背景にした町衆の自立……的な事例。
中世後半における町衆や惣村や国人の自立って、ダイナミズムがあって面白いですね。
で、この町を対象とした禁制。
従来は三好長慶さんの時代から始まったとされていたのですが、今回の発見で細川国慶さんまで遡れることが分かったとのことですよ。
かんたんに時代背景を申し上げると、1546年当時の畿内は細川家の内乱終盤戦でして、細川晴元さんや三好一族たちの勢力と、細川氏綱さんや細川国慶さんや河内畠山家(尾州家)たちの勢力とでドンパチやっていた訳です。
河内畠山家(尾州家)で遊佐長教さんが輝いていたことに定評のある時代ですが、同時期に氏綱派細川家で輝いていたのがこの細川国慶さん。
氏綱派の中核一門武将として、一年間くらい京都を制圧していたのです。
まあ、残念ながら、四国の細川持隆さんのナイスフォローにより三好実休・安宅冬康・十河一存という三好長慶さんの有能な弟たちが援軍に駆け付け、畿内の氏綱派勢力は次々と駆逐され、更に翌1547年の舎利寺の戦いで致命的大敗を喫してしまうのですが。
(国慶さんも京都攻防戦で戦死したっぽい)
その後、三好長慶さんが晴元派から氏綱派に転じて畿内を制覇し、うっかりそのまま当時の価値観ベースで天下人として君臨してしまったせいか。
結果論で見て、氏綱派勢力のコア戦力として活躍していた国慶さんは、実休さんたちの活躍を引き立たせる存在としてこれまで捉えられがちだった訳ですよ。
ですが、最近はこのように、三好政権の統治手法の萌芽、先駆けのように国慶さんを扱う視点が出てきて、よかったなあと一畿内史ファンとしては思うのであります。
なんかだんだん細川家、特に高国系統の再評価が進んでいますよね。
確かに当時の京都人からすれば、当初1549-1553頃の三好長慶さんは「細川国慶さんの後任」みたいに映っていたのかもしれない。
名前の漢字もかぶってるし。ていうか長慶さんの改名ってそういうことなんだろうか。
これまでの畿内史ニュースは、「実は三好長慶が先駆者だった」みたいなのが多かったのですが、これからは「実は細川家が先駆者だった」「ていうか畠山家など他の家でもやってた」みたいなのも増えてくるかもしれません。
研究草創期は特定の人が注目されて、研究が進むと他にもいっぱいすごい人がいることが分かってくる、というのは歴史あるあるですしね。
今回の発見を手掛けた馬部隆弘准教授は、まさにこうした三好長慶さん以前、細川氏や木沢氏等の再評価を主導してはるイメージがあります。
もうすぐ論文集が出版されるようですし、こうした新鮮な視点がより広く世に流通することを期待したいと思います。
楽しみではありつつ、800ページもあるそうで。
たぶん買うと思いますが、読み終わるのはいつになることやら……。
「戦国期細川権力の研究」馬部隆弘さん(吉川弘文館) - 肝胆ブログ
論文集がたくさん売れて、この界隈の注目が増して、畿内史研究は食っていけるらしいぞ私畿内史で論文書きたいですみたいな若手研究者が増えていきますように。