以前読んだ「ヘンリ・ライクロフトの私記」(ギッシングさん)で絶賛されていた「アナバシス」を読んでみたら、確かにめちゃくちゃエキサイティングな戦記&紀行ものでかんたんしました。
「ヘンリ・ライクロフトの私記」ギッシングさん / 訳:平井正穂さん(岩波文庫) - 肝胆ブログ
あらすじは次のとおりです。
前四○一年,ペルシアのキュロス王子は兄の王位を奪うべく長駆内陸に進攻するが,バビロンを目前にして戦死,敵中にとり残されたギリシア人傭兵一万数千の六千キロに及ぶ脱出行が始まる.
従軍した著者クセノポンの見事な采配により,雪深いアルメニア山中の難行軍など幾多の苦難を乗り越え,ギリシア兵は故国をめざす…….
かなりのハードシップですね。
おおきくは史実のようです。
以下、ネタバレを含みます。
紀元前401年。
キュロス王子というペルシア王家に連なる人物に惹かれて、バビロンまで遠征することになったギリシア人傭兵さんたち。
ところが、現地に着いて早々、勝ち戦にも関わらずキュロス王子が突出しすぎてうっかり戦死してしまい。
しかもギリシア傭兵の指揮官たちはペルシアの計略で別途まとめて謀殺されてしまい。
残されたクセノポンさんと一万数千人の兵士たちは、ギリシア目指して行軍し続けることになるのです……。
ペルシア兵から追い掛け回され。
アルメニア地方の各民族の国を強行突破し。
黒海沿岸の山賊というか野盗というかなヤカラに傭兵として雇われ。
ギリシアに近づいたと思ったら当時のアテナイ・スパルタの政争に巻き込まれ。
最終的に5000名ほどまで兵が削られつつも、なんとか帰国することができたのでした。
クセノポンさんは政治的なアレで故国アテナイには戻れなかったみたいですが。
この作品、ヘンリ・ライクロフトの私記で絶賛されており、カエサルさんの「ガリア戦記」に匹敵するとの評がなされていまして。
↓ヘンリ・ライクロフトの私記から引用。
たとえこれがギリシア語で書かれた唯一の現存する作品だとしても、それをよむためにだけでもギリシア語の勉強をする値打ちは大いにあろう。
『アナバシス』は簡潔でテンポの速い叙述が絢爛たる絵画的な美しさと巧みに融合している点で、ユニークな驚嘆すべき芸術品なのである。
そこではもろもろの野心と闘争が、未知の国の不可思議なことがらが、目もあやに描かれている。はらはらする危機や救助がふんだんにもられている。山岳や海の新鮮な空気が颯々として吹き通っている。
あらゆる時代の人々の感動をさそう、人間の愛情と犠牲のすがたが輝くにいたった
中でも、引用されていた「二人の捕虜」のエピソードが印象的だったので、いっちょ実際にアナバシスを読んでみようと思ったのです。
二人の捕虜のエピソードについては、アナバシスの方から引用してみます。
クセノポンが言うには、
「実は私のところにも案内人が二人いる。先に彼らから難儀を蒙った時のことだが、われわれは待伏せをしかけたのだ――これはわれわれには息抜きにもなったのだが――幾人かは殺したが、生捕りにしたいと思ったのは、正にこの目的のためで、土地に詳しい者を案内人に使いたかったのだ。」
そこで直ぐにその二人を連れてこさせて、今見えている道のほかに、別の道を知らぬかどうか、別々に尋問した。その一人は、さまざまな威嚇を加えられながらも、知らぬといった。その男は何一つ役立つことを言わぬので、もう一人の男の面前で斬殺された。もう一人の捕虜の言うところでは、前の男には行く先の土地に嫁いで、夫と暮らしている娘があるために、知らぬと言ったのだという。自分は駄獣でも通れる道を案内するというので、その道には通行できぬ箇所はないかと問い糺すと、峠があって、これを先に占拠せねば、通過することは無理であろうという。
……。
名もなき古代カルドゥコイ人(クルド人)の父親としての真情が、現代日本にまで伝わって胸を打つというのはクセノポンさんの筆の冴えあってのことであります。
とは言え、当事者の気持ちになってみれば、クセノポンさんたちギリシア兵集団の来襲は災厄以外の何物でもありませんね……。
彼らは彼らで帰国するため、生き延びるために必死です。
その必死さ故に、道中の各民族の集落は襲撃され、略奪され、人質になって売り飛ばされ、虐殺されていくのです……。
このエピソードに限らず、クセノポンさんによるこの作品の描写は非常に写実的で、具体的で、光景がありありと目に浮かぶような力がございます。
軍中での議論、演説のシーンはとりわけ名場面が多く、これぞ古代ギリシア人とかんたんすること間違いなし。
確かにカエサルさんのガリア戦記に並べられて評されるのも分かる気がします。
私が気に入った場面としては。
元々のギリシア傭兵集団の指揮官たちがペルシアに謀殺されてしまうシーン。
敵将ティッサペルネスさんの巧みな話術や誘導が誠に見事で、仮に自分がギリシア人だとしても絶対騙されてしまうだろうなあ、と思ってしまう迫真味があります。
旅の途中、ギリシア人らしく競争競技会を始めてしまうシーン。
「こんなに堅くしかも草の茂った所で、どうしてレスリングができるのだ。」
などとボヤキながら、めちゃくちゃ楽しそうに騒いでいるところに人間味を感じます。
雪中行軍のシーン。
凍傷凍死の連続も悲惨なのですが、後になってから「あの時、死にかけている兵士を見捨てたやつを殴ったのは適切だったかどうか」→「殴り方が足りぬ」などとワイガヤ議論している場面の法廷ドラマ味が超面白い。
戦のシーン全般で、士気が上がった時のギリシア重装歩兵が戦歌(パイアーン)を合唱しながら突撃していくところ。
これは敵方からしたら怖すぎることでしょう。
装備の問題か練度や陣形(ファランクス?)の問題か、ガチで戦った時のギリシア傭兵軍団の強さは凄いものがあります。
物語の主人公味が充分。
戦記としても紀行文としても鮮烈なシーンがたくさんあり、そうしたジャンルが好きな方には間違いのない作品だと思います。
一万人を超える大軍団の脱出記、しかも史実、なんて滅多にないですしね。
とりあえずティッサペルネスさんの謀略が怖かったです。
私の人生でティッサペルネスさん的な人に絡まれるようなことがありませんように。