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かんたんにかんたんします。

「筒井順慶 感想」金松誠さん(戎光祥出版 シリーズ【実像に迫る】)

 

戎光祥出版の実像に迫るシリーズに筒井順慶さんも登場していてかんたんしました。

筒井順慶さんの薄い本が一般書店で手に入る時代になったんですね。

 

www.ebisukosyo.co.jp

 

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実像に迫るシリーズは以前も取り上げたことがありますが、歴史上の人物やトピックスを、美麗かつ豊富な史料画像や最近の研究の成果を駆使して100ページほどのコンパクトなボリュームにまとめてくださっているというありがたいシリーズであります。

入門用にも復習用にも資料使いにも重宝できるおすすめシリーズ。

 

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当著では、筒井順慶さんの生涯……幼くして家督を相続し、畿内争乱に巻き込まれ、松永久秀さんと戦い、織田信長さんの勢力に組み込まれ、そして訪れる本能寺の変……をしっかり解説いただけます。

 

 

筒井家は興福寺衆徒の家柄でして、応仁の乱に巻き込まれて畠山尾州家サイドに立って畠山総州家サイドの大和国人と戦ったり、細川政元さん配下の赤沢朝経さんが大和に侵攻してきて一時没落してしまったり、細川晴元さん配下の柳本賢治さんの大和侵攻に立ち向かったり、同じく細川晴元さん界隈のあれこれで暴走した一向一揆の大和侵攻に立ち向かったり、台頭してきた木沢長政さんが大和の上位権力者として振舞い始めたりと、戦国時代初期から通じてなかなか苦労が絶えない感じです。

 

筒井順慶さんの父、筒井順昭さんは、木沢長政さんの敗死後に大和の国人衆を降して、大和を代表する勢力として成長いたします。

ですが、順慶さんが生まれた翌年、1550年に順昭さんは病死してしまい。

赤子の順慶さんと彼を支える一族で、なんとか筒井家を保っていこうとする訳ですね。

(「元の木阿弥」逸話は後世の創作)

 

 

この頃、畿内では三好長慶さんが君臨し始めていた訳ですが、長慶さんは当初畠山尾州家と協調していましたので、尾州家びいきの筒井家も三好家との関係は良好だったようです。

順慶さんの「慶」、長慶さんや細川国慶さんと関係があったりするんでしょうか。

 

しかしながら、順慶さん(10歳に満たない頃)は筒井家中のいざこざ解決に向けて安見宗房さんの後ろ盾を得ることになり、その流れで三好家に睨まれ、やがて三好家による安見宗房さん討伐のどさくさで松永久秀さんの大和侵攻に遭ってしまいます。

 

三好長慶さん存命時の松永久秀さんはすこぶる強く、筒井順慶さん(ティーンエイジ)は筒井城を追われ、その後も抵抗を続けますが、おおむねずっと劣勢だったようです。

 

 

 

長慶さん死去、永禄の変勃発後は、順慶さんは三好三人衆と手を結んで松永久秀さんに対抗。将軍家と三好家の分裂による畿内の混乱が続く中、とうとう足利義昭さんと織田信長さんが上洛してきはります。

 

松永久秀さんは足利義昭さん・織田信長さんサイドですので、いよいよ筒井順慶さんは絶体絶命、久秀さんによる大和支配が強化されていくと思いきや……

この頃から筒井順慶さん(二十歳過ぎ)の政治交渉力が輝き始めたのか、三好家の再結集の動きのためか、筒井順慶さんは足利義昭さんに接近し、松永久秀さんは三好三人衆と協調するという、チームの入れ替えが起こります。

(長らく苦労が続いた筒井順慶さんが、結果として勝ち組の流れに乗り始めます)

 

筒井順慶さんは辰市の戦い(1571年)で松永久秀さんに大勝。

更に、織田信長さんと足利義昭さんの関係が悪化すると、順慶さんは織田信長さん側につくというナイスな判断をいたします。

(個人的には、このタイミングで織田信長さんの方を選んだのは慧眼と言っていいのではないかと思います)

 

 

以後、よく知られる織田信長さんの急成長・急拡大の流れの中で、順慶さんは一角の武将として全国を転戦していきます。

筒井家の鉄砲衆が長篠の戦いに出向いたり、

戦死した塙直政さんに代わって大和支配を公的に認められたり、

多聞山城を壊して安土城に高矢倉(天守?)を運んだり、

雑賀攻めにも参加したり、

遂に松永久秀さんを滅ぼしたり、

本願寺攻めにも当然参加したり、

羽柴秀吉さんの播磨攻めにも参加したり、

明智光秀さんの丹波攻めにも参加したり、

有岡城攻めにも参加したり、

本拠を大和郡山城に移すことになったり、

信長さんの京での馬揃えにも参加したり、

織田信雄さんの伊賀攻めにも参加したり、

織田信長さんと一緒に甲州征伐にも参加して駿河経由で帰ってきたりと、

まあなんというか激動の時代をフル回転で過ごしてはったようです。

 

やっぱり織田信長さんの時代は、スピード感と詰め込み感が凄いですね。

さすがというべきでありましょう。

 

 

そして順慶さん、はるばる甲州まで行って武田氏滅亡を見届けて大和に帰ってきたと思ったら、本能寺の変を迎えることになります。

 

この本では、「洞ヶ峠の日和見」逸話を、洞ヶ峠まで来ていたのは明智光秀さんの方で、筒井順慶さんは当初から大和を動かず戦局を見極めていたとして否定しつつ、当時の風聞でも「筒井順慶明智光秀に加担」と噂されていたことは事実であることが解説いただけます。

 

光秀さん的にも秀吉さん的にも「どっちやねん」とヤキモキしたのは間違いないのでしょうが、山崎の戦い時点では畿内衆がどちらにつくかで戦局が大きく動いた訳ですから、大和で大軍を擁する順慶さんの存在は非常に重く、ここでも慎重に状況を見極めた順慶さんの判断力は高く評されてもいいように思えますね。

 

 

こうして見事なジャッジの連続でお家を保った順慶さんは、羽柴秀吉さんの配下となり、本能寺の変からわずか2年後の1584年に36歳の若さで病没いたします。

やはり過労とストレスでしょうか。

順慶さん亡き後も含め、筒井家もたいがい苦労が続くお家であります。

 

 

 

以上、筒井順慶さんの生涯を通史的に紹介していただける本はレアですし、短いページ数ながら密度の高い記述が続く、非常に満足度の高い一冊ではないかと思います。

 

 

個人的に印象に残った点を2点ほど。

 

1つは「筒井順慶さんの妻」。

故遊佐長教さんの娘説(まさか長慶さん後妻と同一人物だったりして笑)、

足利義昭さん養女(公家出身?)説、

織田信長さん養女(しかも徳川家康さんの妹?)説と、

三回の結婚が二次史料を含む文献に見受けられるそうですが、是非、相手の素性ともに果たしていったい。

単純にすべてを信じてしまえば、順慶さんが次々と頼れそうな女に乗り換えていった男扱いになってしまいそうでまことに心配です。

 

婚姻は外交の有力な手段ですし、筒井順慶さんの外交達者ぶりを思えば、いずれもあり得る相手なだけに、気になりますね。

筆者さんも真偽不明とされていますので、この辺は将来明らかになることを楽しみにしておきたいところです。

 

 

もう1つは「神君伊賀越えしてないよ説」

本能寺の変後、徳川家康さんは伊賀を経由せず、大和から高見峠を越えて伊勢に抜けて脱出したという説を紹介してくださっています。

順慶さんのサポートにより窮地を脱した家康さんという新たなイメージ。

旗本竹村家に伝来した文書等に、天正十年六月付けで家康さんから順慶さんへの謝意を示す内容が残っているそうですが、果たしていったい。

真偽はともかく、伊賀忍者による情報操作とか文書奪取とか、時代劇のシナリオを一本つくれそうな説だなあという感想を抱きました。

 

 

 

三好家の研究と(やや乱暴な)知名度アップが進んで、細川家や畠山家や筒井家や六角家などの研究にも刺激を与えているような気がする昨今の風潮、いいですね。

とりわけ筒井家や六角家は織田信長さん界隈との接点が豊富ですから、各地域の研究の結節を更に促してくれそうで何よりであります。

 

こうして全体的にいい感じで新たな知見や発見が生まれていきますように。

 

 

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