皇太子さま57歳の誕生日ニュースで、皇太子殿下のコメントの中に後奈良天皇のエピソードが出てきたことにかんたんしました。
皇太子殿下は学生時代に中世史を専攻されていたそうです。
現代の皇室の方が中世の後奈良天皇のエピソードに触れられたことは、
歴史好きにはグッとくるものがあります。
紹介された箇所を引用すると下の通りです。
また、ふだんの公務などでも国民の皆さんとお話をする機会が折々にありますが、そうした機会を通じ、直接国民と接することの大切さを実感しております。このような考えは、都を離れることがかなわなかった過去の天皇も同様に強くお持ちでいらっしゃったようです。
昨年の8月、私は、愛知県西尾市の岩瀬文庫を訪れた折に、戦国時代の16世紀中頃のことですが、洪水など天候不順による飢饉や疫病の流行に心を痛められた後奈良天皇が、苦しむ人々のために、諸国の神社や寺に奉納するために自ら写経された宸翰般若心経のうちの一巻を拝見する機会に恵まれました。紺色の紙に金泥で書かれた後奈良天皇の般若心経は岩瀬文庫以外にも幾つか残っていますが、そのうちの一つの奥書には「私は民の父母として、徳を行き渡らせることができず、心を痛めている」旨の天皇の思いが記されておりました。
後奈良天皇の治政はどんな時代だったかというと。
在位期間は1526~57年です。
その間、朝廷目線、京都人目線で起こっていた事象を並べると……。
1526年 波多野稙通・柳本賢治が細川高国に造反
-天皇になられた途端、時の天下人政権が大揺れします。
1527年 細川晴元や三好元長が細川高国に勝利、堺公方府立ち上げ
-四国の極道が天下人を追放し、堺に怪しげな政権をつくりました。
どうなる京都。
1530年 細川高国が備前で再起
-かつての天下人がすごい勢いで迫ってきます。どうなる京都。
1531年 細川晴元・三好元長・赤松晴政が細川高国を撃破・斬首
-やっと細川家の内乱が終わりそうです。
1532年 一向一揆が蜂起、三好元長が討死
-今度は宗教勢力が蜂起しました。どうなる畿内。
1533年 細川晴元が一向一揆に撃破されて淡路に逃走
-武家の面目丸つぶれ、どうなる畿内。
1536年 天文法華の乱
-法華宗や比叡山まで武力闘争を始めました。
京市街は応仁の乱以上のダメージを受けます。
末法とかいうレベルじゃねーぞ。
-ちなみに、在位10年目にしてやっと即位式を執り行えました。
だって細川高国→細川晴元の治政が全然安定しないのだもの。
1538年 尼子晴久が東進
-すごい勢いで迫ってきます。どうなる畿内。
1539年 三好長慶が細川晴元に楯突く
-細川晴元政権、安定する兆しが見えません。
1540年 天文の大飢饉
-各地で飢死者多数、京市街も遺体で埋まったようです。
-ニュースに出た後奈良天皇による写経……天下安寧の祈りは
この頃のようですね。
1541年 木沢長政上洛
-なんか怖い人が京に入ってきました。皆逃げました。
1542年 三好長慶が木沢長政を討ち取る
-細川晴元政権が小康状態になりました。
1543年 細川氏綱決起
-細川晴元政権が再び不安定になりました。
て言うかいつまで家督争いするんですか細川家。
1544年 京で大水
-相当な数の建物が流され、京市街は溺死者で埋まったようです。
-一条戻橋で三好長慶家臣が細川晴元に鋸引きされるという陰惨な事件も。
1546年 細川氏綱・遊佐長教が細川晴元勢力を次々に制圧
-細川晴元政権の崩壊待ったなし。どうなる畿内。
1547年 三好長慶が細川氏綱・遊佐長教を撃破
-細川晴元政権が小康状態になりました。
1548年 三好長慶が細川晴元に造反
-細川晴元政権の崩壊待ったなし。
1549年 三好長慶が細川晴元腹心の三好宗三を討ち取り、
足利義晴・細川晴元を近江に追放
-時の政権が遂に崩壊してしまいました。どうなる畿内。
1550年 三好長慶と足利義輝が争う
-お願いだから京で戦わないでくれ。
1551年 三好長慶暗殺未遂事件×2、ザビエル来訪
-お願いだから京で暗闘しないでくれ。異人も怖いから近づかないでくれ。
1552年 三好長慶と足利義輝が和睦
-そうそうそれでいいんだ。
三好長慶には宸筆の古今和歌集を授けるからね。
1553年 三好長慶が足利義輝を近江に再び追放
-……。これからは三好長慶の時代なのかな。
て言うか誰だよこいつ、大悪の大出の曾孫だろ、こえーよ。
1557年 後奈良天皇崩御
-三好政権は思ったよりまともだったが……。
心労が祟ったか、このタイミングで崩御。
-以後、中陰相論の裁許、正親町天皇践祚、改元、即位式等が
三好長慶の手で粛々と進んでいく。
やー、こうして見るとほんど酷い時代ですね。
戦乱、下剋上、宗教一揆、飢饉、大水、キリスト教。
歴代天皇の中でも、トップクラスにお心を痛められたのではないでしょうか。
そんな中、いまに伝わる後奈良天皇のエピソードは
先ほど紹介した写経、猟官活動お断り、なぞなぞ遊びなど
朝廷独自の誠意、誇り、知性、風流を感じるものが多いです。
武家も宗教も民衆も争いまくっている中、
後奈良天皇が泰然と清貧暮らしを送られていたことは、
日ノ本秩序をギリギリで支えてくださっていたと見做せるかもしれません。
うん。
この時代に比べれば、現代の方が100万倍マシですね。
こんな時代が二度と訪れませんように。