肝胆ブログ

かんたんにかんたんします。

「数の子は音を食うもの」北大路魯山人さん

 

北大路魯山人さんの「数の子は音を食うもの」にかんたんしました。

 

青空文庫リンク)
北大路魯山人 数の子は音を食うもの

 

青空文庫に収蔵されている作品で、5分ほどで読める短いエッセイです。

陶芸家であり食通としても有名な魯山人さんが
「数の子ってうまいよね」と綴っている文章なのですが、
その表現の妙味にかんたんしたのです。

 

一部引用いたします。

数の子を歯の上に載せてパチパチプツプツと噛む、あの音の響きがよい。もし数の子からこの音の響きを取り除けたら、到底あの美味はなかろう。

 

もともとたべものは、舌の上の味わいばかりで美味いとしているのではない。シャキシャキして美味いもの、グミグミしていることが佳いもの、シコシコして美味いもの、ネチネチして良いもの、カリカリして善なるもの、グニャグニャして旨いもの、モチモチまたボクボクして可なるもの、ザラザラしていて旨いもの、ネバネバするのが良いもの、シャリシャリして美味いもの、コリコリしたもの、弾力があって美味いもの、弾力のないためにうまいもの、柔らかくて善いもの悪いもの、硬くて可いもの悪いもの……ざっと考えても、以上のように触覚がたべものの美味さ不味さの大部分を支配しているものである。そういう意味において、数の子も口中に魚卵の弾丸のように炸裂する交響楽によって、数の子の真味を発揮しているのである。

 

どうでしょう。

昭和五年の文章ですよ。

オノマトペによる実感に訴えてくる面白さ。
「炸裂する交響楽」という勢いで納得してしまう表現力。

食べもの文化全盛の現代でも、これだけの文章が書けるグルメライターは
なかなかいないように思えます。

 


食べものの話において、北大路魯山人という方は
良くも悪くも頻繁に名前が出てまいります。

料亭吉兆で器が愛用されていることが知られたり、
美味しんぼ海原雄山のモデルであることが知られたりして、
80-90年代のグルメブームで祭り上げられた頃もありました。

多様な価値観が受容される時代になってきて、
その個性的かつ断定的な食批評が独善に過ぎると指摘されることも
多くなってまいりました。

そもそもご存命の頃から毀誉褒貶の多かった人物のようであります。

 

この数の子エッセイにおいても、後段の方では

にしんや棒だらを美味として食わないような美食家があるとしたら、それはにせものである

 

数の子を食うのに他の味を滲み込ませることは禁物だ。だから味噌漬けや粕漬けは、ほんとうに数の子の美味さを知る者は決してよろこばない


という感じにいつもの魯山人節が絶好調です。
「ほんとうの数の子の美味さ」みたいなセリフが出てくると
まさに初期の山岡さんといった感じで楽しいのですが、
こういう物言いが嫌な人にとっては嫌なのでしょう。
私も実生活で周りにこんな言い方する人がいたら嫌です。


とは言え、そういう魯山人節の感心できない一面を以て、
魯山人の全体を悪く言うのもまた違うのかなと思うのです。

冒頭の数の子オノマトペで申し上げた通り、
彼の食べ物批評はとてもユニークで、鋭くて、含蓄があります。

使いこなせそうになくて個人的には欲しいと思わないけれど、
彼のつくりあげた器や書は一級の芸術品だとも思います。


いいところだけを見て、悪いところをスルーできるようになりたいですね。
なんか子ども向けのお説教みたいな雑まとめですけど。


そう、子どもと言えば、今日某所で見かけた幼児が
「抹茶好き! 抹茶好き!」と連呼していまして。

渋い子だなと思ったのですが、隣にいた幼児の家族が
「“まっちゃ”やなくて“めっちゃ”やろ」と突っ込んでいて
ちょっと面白かったです。

 

 

年に1-2回は魯山人の器が出てくるようなお店に行けるくらい、
いつかもう少し暮らしにゆとりができますように。