肝胆ブログ

かんたんにかんたんします。

「六角義賢と滋賀県草津市のうばがもち」

 

滋賀県草津市の名菓「うばがもち」の由来にかんたんしました。

 

うばがもち物語|うばがもちや

 

と言っても食べたことはないのですが……。

 


滋賀県草津市
立命館大学絡みの用事で、一度か二度くらい行ったことがあったかな……。

大津や近江八幡と違って草津は郊外の住宅地というイメージでしたから、
このような歴史あるお菓子が存在することを知りませんでした。


いま読んでいる本で触れられていてたまたま知ったのですが、
江戸時代には既に当地の名物として有名だったそうな。

あんころ餅の親戚のようで、白餡と山芋の練り切りが乗っているところが
独特の風貌ですね。

滋賀県に行く用事は滅多にないのですが、機会があれば味見してみたいものです。

 

↓18/12/30追記。おいしかったです。

滋賀県栗東市「鈎の陣跡」と草津市「うばがもち」 - 肝胆ブログ

 

 

由来は何通りかあるようで、いずれも六角義賢(1521~1598)に因みます。


基本的な伝承としては、六角義賢本人、あるいは義賢の子孫が、
お家滅亡の際に曾孫を乳母に預けて逃がしたと。

乳母はひとり、街道の茶屋で餅を売って生計を立て、その曾孫さんを育てたと。

その美談は江戸時代初期には既に有名になっていて、大阪の陣に向かう
徳川家康もこのうばがもちを賞味して褒美をくださったと……。


事実関係は分かりませんが、なかなか人の興味を引く物語です。

 

 

六角義賢という人物は、戦国時代の中では比較的メジャーな方だと思います。
三好長慶のライバル、足利義輝の庇護者、織田信長に滅ぼされた一人……という感じで、
色んな場面で登場してきはるのです。

とりわけ同時代の方々から見れば文句なしの大大名だったはずで、
何と言っても近江佐々木源氏の本家筋を受け継ぐ人物ですから。
全国の佐々木さんや京極さんからの憧憬を集めて然るべきお家柄なんですよ。

戦国時代ものの小説やゲームではやられ役のように扱われがちですが、
河内畠山氏同様、過小評価されている部類だと思います。


浅井長政との戦いでは2万を超える兵力を集めたと言われています。
この時代に2万人を集められる大名なんてほとんどいませんからね。
……まあ、寡兵の長政に負けてしまったんですが。

同じく2万を超える兵力を集めて三好家を京から追い出したこともありますからね。
一時的にせよ、天下(畿内)の頂点に君臨した人物なのです。
……まあ、数か月後に三好家が巻き返してきて近江に撤退したんですが。


どうも六角義賢さんは能力が足りないとか驕り油断があったとかではなくて、
「持ってない」という印象があります。

要所要所で、けっこう適切なタイミングで適切な行動を起こしているのですが、
なぜかいっつも上手くいかない。
ついてない男、気の毒な男なんです……。

三好長慶織田信長が時代の追い風に乗った男なのだとしたら、
六角義賢は時代の向かい風に翻弄された男なのかもしれません。

これはこれで、人々の同情を買えそうな境遇です。

 

そんな義賢さんルーツのお菓子が残っているということは、
やっぱり地元ではけっこう愛されていたんでしょうね。
なんと言っても近江源氏の本家さんですし。



とは言え、このお菓子の件にしても謎が多いと思います。


六角義賢の曾孫ということは、ひと世代20年としたら1580年代誕生になります。
ちょうど織田信長本能寺の変でお亡くなりになる頃です。

このタイミングで……曾孫を乳母に預けて逃がす必要があるのかなあ?
逃がしたとしても、秀吉に仕えた辺りで呼び戻しそうなものです。

更に言えば、佐々木源氏の正統を継ぐ子どもがいるのだとしたら、
江戸時代に佐々木氏筋の家から全力でウェルカムされそうなものだと思うのです。
一説には、旗本になった六角氏は跡継ぎ不在で断絶したそうですし。
お家断絶になるくらいなら、この子に目をつけますよね。
しかも徳川家康に褒められるくらい有名なお店なのだし……。



こういう伝承をもとにあれこれ想像を巡らせたら、
一本くらい小説を書けそうでわくわくします。


例えば老境に入った義賢が迎えに行ったんだけど断られてしまったんだとか、
なぜなら乳母は実は乳母ではなくて義賢の側室だったんだとか、
生まれが卑しいから表には出せないんだけど義賢は本気で彼女を愛していたんだとか、
彼女には彼女の意地があって、曾孫は曾孫で既に武家に見切りをつけていて、とか。

そうして義賢死後、大阪の陣のタイミングで、近江の没落国人が曾孫を拉致って
彼を旗印に大阪城に入城しようと企むんですが。
婆さんになった乳母が無双して牢人どもを追い散らすんです。
それを後で耳にした家康が乳母に褒美を取らせたのがうばがもち伝承の真相なんです!
とか。

乳母の素性を日置流の使い手とかにしたら辛うじて話を成立させられそうです。


うばがもちやさんに訴えられそうだから書きませんが笑

 

 

こんなことを考えながら六角氏の研究書を何冊か立ち読みしてみましたが、
義賢・義治父子以降の動向はやっぱりよく分からないようです。

滋賀県石田三成のCMをつくるくらい歴史に理解がある訳ですし、
次は六角家の研究にも力を入れてくださいますように。