三好実休さんと畠山高政さんが激突した久米田合戦の現場界隈散策が楽しくてかんたんいたしました。
関西南部ぷらぷら行脚の最終日(3日目)。
岸和田市の久米田合戦古戦場を見てまわるつもりでJR阪和線の下松駅で降りました。
久米田寺には久米田駅が近いのですが、三好実休戦没地は下松駅の方が近そうだったからです。
三好実休戦没地
三好実休戦没地はとても分かりにくい場所にあります。
下松駅から東側に降りたら、府道30号線(通称は13号線、旧熊野街道でもある)を左に曲がり、積川神社の鳥居があるところまで進みましょう。
↓目印の鳥居。
白河上皇が熊野行幸の際、この地から積川神社(岸和田のもっと山の方に存在)を遥拝し、自ら筆を執って「正一位積川大明神」の扁額を大書されたとのことです。
(写真の扁額はレプリカ)
三好実休さんの戦没地はこの鳥居をくぐって真っ直ぐ、満願寺というお寺の隣の隣にございます。
↓地図。
実休さん……。
三好実休さんは三好長慶さんの弟で、細川持隆さん(育ててくれた恩人……)を下剋上して阿波を支配していたお方です。
詳しい説明は省きますが、軍事でも知略でも風流でも当代最高クラスだったお方で、実力では兄の長慶さんに勝るとも劣らないほどの傑物であります。
千利休さんの高弟、山上宗二さんに唯一認められた武将……「実休ハ武士ニテ数寄者也」でも有名ですね。
本名は「之虎」が正確らしいんですけど、世間的には「義賢」(どうも誤伝っぽい)で通っていたりします。
ややこしいので、最近では戒名の「実休」さんと呼称されることが多いようです。
1562年。
三好家は前年から近江の六角義賢さんと紀伊の畠山高政さんの挟撃に遭っておりました。
これを受け、ざっくり言うと北側の対六角は三好義興さんや松永久秀さんなどの畿内衆が、南側の対畠山は三好実休さんや安宅冬康さんといった四国衆が担当していたようです。
(鬼十河さんは前年に病死。タイミングが良すぎる気もしますが病死)
実休さんは若い頃から阿波の精兵を率いて河内畠山家を幾度もボコボコにしてきたお方なのですが。
この時ばかりは「河内返せ」「三好家調子乗り過ぎ」という畠山高政さんたちの士気・練度が相当に高かったのか、実休さんと高政さんの戦いは何箇月にも亘って膠着してしまいます。
そして運命の1562年3月5日。
遂に三好軍と畠山軍が激突します。
戦いは兵数で劣る三好軍がなお優勢だったのですけど……。
一発の流れ弾(あるいは流れ矢)が三好実休さんの命を奪い、そのまま三好軍は総崩れとなってしまいました……。
戦でも政治でも基本的に「無敵」だった三好兄弟が、遂に敗れたのです。
決着が流れ弾のおかげだったにしても、三好家のコア戦力「四国衆」と何箇月間も互角に渡り合った畠山高政さんの実力はもっと評価されるべきだと思います。
ていうか河内畠山家って分裂してたり下剋上されてたりして目立たないんですけど、中央政権を握ってきた細川家と「同格」の超名門大名ですからね。
この戦没地から、実休さんが陣を構えていた貝吹山古墳までは1kmほどです。
想像ですが、劣勢だった畠山軍は熊野街道を目指して後退した(熊野街道に出ないと春木川(轟川)に邪魔されて逃げられない)、それを追って実休さんたちも西側に向かって追撃した、そこを久米田池を経由してきた根来衆の往来右京さんたちが背後から鉄砲を浴びせた、という経緯でしょうか。
敗戦後、三好家四国衆は安宅冬康さん・篠原長房さんたちの手腕により奇跡的なスピードで立て直されます。
そして、飯盛山城で籠城していた三好長慶さんや京を捨てて南下してきた三好義興さんたちと一緒に「教興寺合戦」で畠山軍に大勝。
六角家も京から撤兵し、五畿内を完全に抑えた三好家の権勢は絶頂期を迎えますが……。
実休さんを失った痛手はやはり大きかったと思います。
三好家には有能な将も奉行も揃っていましたけど、いわゆる「将の将」たる力と立場を有する人は長慶さんと実休さんと義興さんの三人だけだった印象なんですよね。
(三人もいれば普通は充分なんですが)
実休さんが1562年に戦死して、義興さんも1563年に病死(?)して、長慶さんも1564年に息を引き取って。
その後の三好家は……誰も「全体をまとめる」ことができなくなってしまいました。
…………。
切々としたものを感じながら、久米田寺方面に向かいましょう。
久米田古墳群の貝吹山古墳 (三好実休陣地跡)
三好実休戦没地から道なりに歩いていくと、久米田寺の手前、久米田中学校の向かいに「久米田古墳群」が現れます。
堺市などと同じく、岸和田にも古墳時代の名残りが残っているようですね。
誰のお墓なのか分かっていないものが多いそうで、こっちはこっちで歴史ロマンを感じます。
このうち、最大規模の前方後円墳が貝吹山古墳となります。
先ほどご紹介の三好実休さん、この古墳の上に陣城を築いていたようで……。
バチ当たりな感じも相当しますけど、室町時代や戦国時代、畿内ではこういう古墳を陣地に活用するケースが多かったみたいです。
古墳って高台になっていたり堀があったりで、陣地に必要な要素をふんだんに備えているからなんでしょう。
貝吹山古墳には実休さんの遺構はおろか、看板のひとつすらありません。
パッと見はただの丘と池です。
もし三好家の大河ドラマとかヒット漫画とかが生まれたら、この貝吹山古墳も急速に整備されたりするんでしょうか(笑)。
↓久米田寺側から池を挟んで見たところ。
↓登ってみたところ。
↓心の目で畠山軍を描いてみよう。
全体的に樹木が茂っていますので、見晴らしはよくありません。
たぶん戦国時代当時は木を伐採して遠目が利くようにしていたのでしょう。
現代では見晴らしよりも緑を優先した方が住民満足度は高そうです。
久米田寺
行基菩薩さんが738年に開基した岸和田の名刹です。
岸和田は京にも吉野にも近いので、南北朝時代は北朝からも南朝からも庇護を受けていたそうな。
確か太平記にも記述があったと思いますし、お寺の看板にも足利尊氏さん・直義さんの名前が登場していました。
その後は実休さんと高政さんの戦いで一度焼けてしまったそうで……。
10月のだんじり祭の際にも来たことがありまして、その際は勇壮で賑やかな熱気に包まれていました。
こうして平時に訪れてみれば、親しみやすさと清閑さを併せ持った、実に「近所にあったら嬉しいであろう」お寺さんですね。
久米田池
最後に久米田池を散策して帰りました。
久米田池は行基菩薩さんによって築かれた大阪最大のため池とのことです。
この散歩が思った以上に楽しくて……!
結果的には久米田池の周遊に一番時間を使ってしまいました。
何が面白いって、お日様や雲のちょっとした変化、あるいは見る角度によって、池の景色ががらりと変わるんですよね。
水辺っていいですねえ。
野鳥もたくさん飛んでいましたし、こんな散歩しがいのある場所もそうそうない気がいたします。
↓「世界かんがい施設遺産」にも登録されたそうで。
友人曰く、この登録を祝うためにだんじりを走らせていたら事故で一人お亡くなりになってしまったそうですが……(笑えない)。
ちなみに、以前「水なす」を紹介した匠屋さんの店舗もチラ見してきました。
ものすごく複雑な場所にあったので、詳しいルートは紹介できません。
これは地元民の手助けがなければ発見できないっすわ……!
来年の水なすも楽しみです。
以上、三好実休さんを偲ぶ岸和田の旅でございました。
観光地観光地していないので、かえって散歩にはよかった印象です。
実生活の中にちょっとだけ歴史が顔を出している感じが楽しい。
但し、久米田寺界隈は地味にアップダウンが激しいので、しっかり歩ける靴でないと厳しいです。
観て回るだけなら、ベストは軽自動車か原付だと思います。
三好実休さんと畠山高政さんの人気が上がっていきますように。