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「南近畿の戦国時代 躍動する武士・寺社・民衆」編:小谷利明さん・弓倉弘年さん(戎光祥出版)

 

楽しみにしていた表題の論文集を読んでみたところ、いろいろと興味深い内容や説が取り上げられていてかんたんしました。

 

戎光祥出版株式会社 / 戎光祥中世史論集第5巻 南近畿の戦国時代―躍動する武士・寺社・民衆

 

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中世の京都で「南方」と呼ばれていた地域……河内・摂津・和泉・大和・紀伊を「南近畿」と定義したうえで、南近畿における戦国時代のトピックスを編纂した論文集となります。

 

河内畠山家木沢長政さんのファン、あるいは三好家や織田家の南近畿支配、更には和泉国一揆」「宇智郡惣郡一揆などに関心のある方にとっては垂涎の書。

 

そういう風に書くとマニアックすぎる気もしますが、南近畿は応仁の乱でも明応の政変でも波乱の舞台となりましたし、その他にも堺の発展、三好家や織田家の畿内制覇、豊臣家の紀州征伐などなど戦国史における重要イベントが目白押しですので、南近畿史を知っておくと戦国時代を一層楽しめること間違いなしであります。

 

 

 

以下、章ごとに概要と感想を書いてまいります。

素人理解ですので詳しくは本書を読んで確認くださいまし。

 

 

 

第1部 南近畿の在地社会と城郭

Ⅰ 紀伊国における守護拠点の形成と展開(新谷和之さん)

タイトル通り、紀伊における守護所・軍事拠点がどのように展開していったかを論じている内容です。

 

現在の和歌山県同様、当時の紀伊国も中心地は北部……いまの和歌山市周辺、紀伊湊がある辺りだったようですが。

なんせ紀伊国は広い。

歴史のある地域だけあって、強大な宗教勢力、独立性の高い国人衆、更には南朝残党と守護支配が難しい要素も盛りだくさん。

 

そういった背景から支配強化に向けて守護所や軍事拠点が徐々に南下していった、

更には畠山家の内乱、豊臣秀吉紀州征伐等においては各所の山城の争奪戦が繰り広げられた……

 

といったことを説明いただけます。

 

 

在地有力国人の湯河氏……単なる河内畠山家配下と見なされがちだが、実際は独立した幕府奉公衆でもある……が畠山家の勢力を押領している様子などは興味深いですね。

畠山家に時には従い時には逆らい、そうこうしているうちに秀吉さんが攻め寄せてくる訳ですが、こうした個性的でアクの強い有力国人の姿は学んでいて楽しいです。

 

 

 

 

Ⅱ 山城から平城へ ――一五七〇年代前後の畿内と城郭(中西裕樹さん)

戦国時代のお城は軍事拠点色が強い山城から、城下町支配色が強い平城へ移っていった……という話は一般によく知られていると思います。

畿内では、三好長慶さん時代までは山城(芥川山城・飯盛山城等)が中心で、織田信長さんを経て豊臣秀吉さん時代になると平城(大阪城等)が中心となっていきます。

 

そんな山城から平城への流れの先行モデルが1570年代前後における河内の「若江城」「烏帽子型城」ではないか、という論文になります。

これは興味深い提言ですね。

 

発掘調査の成果などを踏まえた検証を整理いただいていますので、詳しくは本書をご覧いただきたいのですが、畿内における築城技術・地域都市経済それぞれの発展が平城化……一国支配というより地域・在地レベルの都市(城下町の原型)支配の促進……の流れをつくったのではないか、という著者の意見は優れた指摘ではないでしょうか。

 

 

著者は、天正八年(一五八〇)以降の織田政権の拠点城郭が寺内町に隣接、もしくは近隣での同じ地理・交通環境の城郭を取り立てる傾向を指摘したことがある。

 (中略)

畿内の近世城下町は戦国期の都市を前提に成立したとの解釈も可能である。やがて、中世有数の港町として栄えた兵庫津には兵庫城が築かれ、天正十一年には大坂本願寺の地に羽柴秀吉大坂城を築くことになった。

 

織田政権以降、城下町経営が本格的となり、城下町と一体化しやすい「山城から平城へ」という動きがあった。これに間違いはないが、全くの「オリジナル」で、地域社会とは無縁だったのだろうか。

小文では、発達した技術と流通を背景として、すでに一五七〇年代前後の畿内ではこの志向がはじまっており、平地での城郭の拠点化がみられる事例を取り上げた。畿内に基盤を置く「後発」の織田・豊臣政権は、戦争の大規模化と相まって、この動きを推進していったものと理解したい。

 

 

 

 

Ⅲ 文明の和泉国一揆と国人・惣国(廣田浩治さん)

和泉国一揆」の研究を再始動させようという意欲高い論文になります。

極めてマニアックながら面白い内容ですよ。

 

「文明」とは「応仁・文明の乱」の文明です。

さいきん有名になってきたあの畠山義就さんの脅威が、和泉国人衆の団結・自立・防衛を促したという(笑)。

和泉府中を拠点に兵糧米を徴発したり、守護をスルーして幕府軍と直接連携したりしていたようで。

 

とは言え、乱が落ち着いてくると、守護細川氏守護代松浦氏の統治も盛り返してきて、徐々に一揆は解体していったとのことです。

 

史料上では「惣国」と記されているものの、実態は国人・百姓の一体化にまでは至っていない、「国人一揆」というべき内実だったであろうとのこと。

その上で、名高い山城国一揆に先行している点、存続期間も山城国一揆に匹敵する点から、畿内を代表する一揆に位置付けるべきと著者は主張されております。

 

一揆マニアには堪らない内容ですね。

 

 

 

 

Ⅳ 戦国時代の大和国にあった共和国(田中慶治さん)

引続き一揆系の内容です。

「共和国」の元ネタはフロイスさんが雑賀惣国を指して言った「共和国の如きもの」。

大和宇智郡(現在の五條市)の惣郡一揆について説明いただける論文になります。

 

一揆を形成していた三箇氏、二見氏、表野氏等の素性や親族関係・その後を取り上げながら、惣一揆が河内畠山家や高野山といった大権力と対等に交渉したり、地域の紛争解決や祭祀を担うなど公権力的機能を発揮していたりという事績を明らかにされていて、興味深く拝読させていただきました。

 

地域公権力が揺らいでいたさなかに発生した惣国・惣村といった自主的自治的な地域民衆のあり方は、大名・武将たちと双璧を成す戦国時代の裏主役だと思います。

 

 

 

 

Ⅴ 織豊期の南近畿の寺社と在地勢力 ――高野山攻めの周辺(小谷利明さん)

足利義昭さん&織田信長さん上洛以後の、中世的権力の解体過程を通史的に見つつ、触れられる機会の少ない高野山周辺の話題も解説いただける章になります。

とても読みやすい上に近頃の畿内史研究のエッセンスも詰まっていて高品質ですね。

 

現在はあまり知られていないけれども当時は大変な有力者だった河内畠山家内衆たち、「安見右近さん」「保田知宗さん」「平三郎左衛門尉さん」の三人が織田・豊臣政権の中でどのような選択・行動をしてきたかが記されていて、武将ドラマとしても通史理解としても充実した内容になっています。

 

彼らは織田政権の中で佐久間信盛さん」「柴田勝家さん」との結びつきが強かったため、結果としてお家安泰とはいかなかったようですが……。

河内と柴田勝家さんの繋がりが強いとは存じませんでした。

 

そして、そうした河内畠山家残党が高野山に流れ込み、織田信長さん・豊臣秀吉さんに相対するも……最終的には高野山の高僧「木食応其さん」が武力闘争回避を実現しはった結末までを記してくださっています。

 

論文なのに「敗者たちのドラマ」になっているのが楽しい。

ぜひ多くの方に一読いただきたいと思います。

 

 

 

 

 

第2部 戦国時代の河内と権力

Ⅰ 河内王国の問題点(弓倉弘年さん)

畠山義就さんルーツの「畠山総州家」の勢力が、戦国期を通じてどうして凋落していったのかを家臣団権力の切り口から解いてくださっている章です。

これも大変興味深い内容です。

戦国大名の家内統治・権力構造というものを考えたい方におすすめです。

 

畠山義就さんが、応仁の乱も含めた家督争いを勝ち抜くため、従来とは異なる内衆、足軽・牢人を多数採用した。
(一方で勢力圏が被る後南朝との連携は反対したというのが個人的にツボ)

 ↓

軍事力は短期間で増大したが、内部統制の問題を多く生んだ。

 ↓

従来守護代の遊佐氏・誉田氏は、義就没後に新参内衆(河内三奉行)を排除。

 ↓

三奉行排除後、遊佐氏・誉田氏が武力抗争。

 ↓

畠山尾州家につけこまれる。

 ↓

そして現れる「木沢長政」さん。

 

……という。

新参者を重用する効能とリスクを分かりやすく教えていただけますね。
短期間での急速な成長を目指す経営者さんも必読です。

 

 

 

 

Ⅱ 木沢長政の政治的立場と軍事編成(馬部隆弘さん)

いちばん読みたかった論文です。

三好家や細川家や足利将軍家や波多野家などのファンもぜったい目を通された方がいいと思います。

 

特に注目すべき論点として、「木沢長政さんは下剋上で知られるが、一貫して足利義晴さんには忠誠を捧げていたという説」を述べてはります。

 

確かに……

最終的には細川晴元政権と天秤にかけられて義晴さんに見捨てられましたけど……

 

私の印象としては、足利義晴さんの政治的手腕の評価を上げる説だな、と思いました。

丹波の波多野秀忠さん(稙通さん)と河内・大和の木沢長政さんを「守護並」と黙認して、自身に使いよい手駒として育てている感。

もちろん前章の畠山義就さんと同じく、新参者を重用しすぎるとリスクも大きくて、後に足利義晴さんのお子さん方は三好家や織田家に追い込まれる訳ですが……。

 

木沢長政さんと足利義晴さん、互いに利用しあっている感じがピカレスクロマンに溢れていてイイですね。

 

 

この論文、描写的にも内容的にも面白いものが多いんです。

 

この前201X関係で紹介した三好元長さんについても。

晴元は、三好元長畿内に召喚する。これによって高国を滅ぼすことには成功するものの、元長はその勢いのまま享禄五年初めに甚次郎まで討ち果たしてしまう。

どんな勢いやねん! とか。

柳本甚次郎さんは賢治さんの息子と言われていましたが、本当は当主代行者なのだとも述べられております。
去年の大河ドラマ井伊直虎さん的な役割だったんですかね。

 

篠原長房さんで知られる阿波の篠原家は、三好家家臣ではなく本来は細川讃州家(阿波守護細川家)の内衆ではないか、という説ですとか。

これは違和感ない気がします。
徐々に三好家の家臣に組み込まれていった感じなのでしょうか。

 

木沢長政さんは堺関係者など従来の守護・守護代とは異なる方法で軍事動員を図っていることを紹介し、長政さんをアゲているのかと思えば

軍勢の姿が「美麗」で衆目を驚かせたが、いざ合戦になると、見た目だけであったという。軍備や人数は揃っていても合戦に不慣れな点は、長政による軍事編成を反映したものと評価できるのではなかろうか。

と冷静な評価を与えていたりですとか。

 

長政さんが境目地域の新興権力者として、ひょっとしたら赤沢朝経さんをモデルにしつつ、飯盛山城や信貴山城など拠点を次々に移していった姿を取り上げ、ついでに

天野忠幸氏は、長慶以外に畿内で居城を次々に移した人物を認めていないが、長政はその先駆に他ならない。さらに天野氏は、京都を見下ろす飯盛山城に在城することで、長慶が足利家に優越することを視覚的に示したとするが、義晴に忠誠を尽くした長政との連続性を踏まえると、その説には従いがたい。

と天野氏に反論してはったり。

 

本当に読み応えのある論文でございました。

木沢長政さんの研究が進んできて何よりであります。

 

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天野氏は畿内史の一次史料整理に大きな成果を上げ、また、三好氏の再評価にも尽力されている方です。近年の三好・松永再評価は天野氏なしには語れません。

以前何かのインタビューで天野氏自身が仰っていたのですが、研究当初は「三好関係はほとんど先行研究がなかった」「論争相手すらいなかった」という状態だったそうですので、こうして反論が出てきたこと自体、天野氏の本望なのではないでしょうか。(と、いち畿内史ファンとしてポジティブに願っております)

 

個人的には、三好長慶さんは木沢長政さん(や三好宗三さんや父の蹉跌や)など様々な先例を上手く取り入れてハイレベルな統治者になったタイプだと思いますので、なんでも「三好長慶が先駆者!」「●●さんより先に長慶がこれをやっていた!」とアピールし過ぎなくてもいいんじゃないかと思っています。

そういうアピールを望む人も多いでしょうから難しいところなんでしょうけど。

 

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Ⅲ 三好氏の本拠地としての河内(天野忠幸さん)

という流れからの天野氏論文という。

ナイス編成です。

 

こちらの論文では、三好長慶・義継期の三好氏河内支配による「河内内海(当時の河内は巨大湖や河川が入り組んだ内海世界だった)と大阪湾の連動」を大きく取り上げ、「山間部境界しか見ていなかった木沢長政さんとの差別化」を強調している印象で馬部氏の論文との関係も含めて面白い章となります。

 

仰る通り、瀬戸内利権を有する三好家が河内を支配することで、巨大交易圏形成みたいなビジョンも出てきていたのでしょう。

実際に河内南部を三好実休さんや三好康長さんといった四国衆が統治していたこともそういう構想が頭にあったからなのかもしれません。
(四国衆の不満解消という面もあったんでしょうけど)

 

 

また、長慶さんから始まる「河内キリシタン」が、三好家崩壊後も織田信長さんや豊臣秀次さんや小西行長さんに仕え、豊臣政権を支えていったことも紹介されています。

ただ、その3名は最終的に全員滅び去った関係で、徳川幕府には継承されなかったんですが……。

河内畠山家遺臣のその後と重なるものがありますね。

 

 

ちなみに論文のラストでは、河内の内海は大和川付け替えや新田開発等により消滅していったものの、野崎観音参り等で江戸時代も河川交通は引続き盛んだったことに言及されています。

こうした付言は河内の歴史ファンの心情をくすぐるに違いなく、読者の顔を思い浮かべつつきちんとした学術論文を書くことができるプロの実力を感じ入りさせられます。

 

 

 

 

以上、発見や感慨の多い面白い本でございました。

 

繰り返しですが、畿内史でようやく論争が成立するようになってきたことそのものに深くかんたんしております。

反論がないままには、学問として定説だと認められることもないですもんね。

 

 

ますます論壇がにぎやかになって、確たるイメージが築かれていきますように。