ギッシングさんによる「ヘンリ・ライクロフトの私記」が現実からのしばしの遊離を楽しめてかんたんしました。
イギリス版、あるいは近代版の徒然草のような趣も。
波乱ある人生を送った苦労人ギッシングさんが最晩年に書き上げた随筆風小説です。
辛く貧しい生活を送っていた作者が描くこの本は、ひょんなことからけっこうな額の年金を受け取る権利を手に入れた老小説家「ヘンリ・ライクロフト」氏が田舎に隠棲して日々の思いを綴った私記、というもの。
あたかもギッシングさん自身が大金を得て穏やかな田舎暮らしを手に入れたかのような内容なんですね。
作者の願望か、生まれ変わったらこんな暮らしを送りたいなのか、あるいは自身の境遇への慰めか、はたまた救済か……などと考えてしまいます。
ヘンリ・ライクロフト氏の私記は四季別に収められておりまして、季節ごとの自然を綴る文章がたいへん美しい。
春。
近頃は毎朝同じ方面を散歩するのだが、実は若い落葉松の植林を見るためである。若い落葉松が現在装うている色ほど愛すべき色はほかにはない。私の目を喜ばせるとともに生気を吹き込んでくれるような気がする。そこからにじみ出るなんともいえない力が私の心の中にしみこんでくるのである。あっけなくその色は変わることだろう。すでに若々しい輝くばかりの新緑は夏の落ち着いた色合いに変わり始めたように思う。落葉松が無類の美しさを示すのはごくわずかな期間だけなのだ。来る春ごとに、幸運にもその美しさを見ることのできる人は幸いなるかなである。
夏。
日曜の朝だ。地上の美しいあらゆるものの上に、この夏になって、まだかつてないほどのすがすがしい、柔らかい空が輝いている。窓は開け放たれ、庭の木や花の上に太陽の光が明るく輝いているのが見える。私のためにうたってくれている鳥の声もいつものように聞こえる。時折、軒端に巣をつくっている岩ツバメがさえずりもせずにすっと飛んでゆく。教会の鐘はもう鳴り始めた。遠近で鳴る鐘の音色を私はすっかり覚えている。
秋。
夜明けに私は窓の外をみた。空にはそれこそ手のひらほどの大きさの雲一切れさえみられなかった。木の葉は、露の上にきらめく神々しい朝の光りをうけて、歓喜にむせぶように静かにうちふるえていた。日没の頃、私はわが家の上の方にある牧場に立って、真っ赤な太陽が紫のもやの中に沈んでゆくのをみた。私の背後のスミレ色の空には満月が昇ろうとしていた。日時計の影がゆっくりまわっていた日がな一日なんともいいようもない美しさと静けさが流れていた。秋がこれほど壮麗な色彩に「にれ」や「ぶなの木」を染めたことはいまだなかったように思う。壁をおおう木の葉がこんなに真紅に輝いたことも、かつてなかったと思う。こんな日は散歩にはむかない。目に映ずるもの一つとして美ならざるはなしといったような、青青と、また黄金色にてりはえる大空の下では、漠々たる静けさのうちに「自然」に溶けこむことができればそれで充分なのだ。
冬。
春の光りを待ち焦がれて、私は近頃はブラインドを上げたまま眠ることにしている。目がさめたとたんに空が眺めたいと思うからである。今朝、私はちょうど日の出前に目がさめた。大気は静かであった。西の方にあたって淡いバラ色の光りが漂っており、それが東の空の快晴を予言していた。雲一片みることもできなかった。そして、私のすぐ眼前には、まさに地平線に沈もうとしている三日月が輝いていた。
快晴の見込みは当たった。朝食の後、私は炉のそばでじっと坐っていることができなかった。全く、火などはほどんど必要ではなかった。太陽に誘われて私は家を出てゆき、湿っぽい小径を午前中歩きまわり、大地の香を心ゆくばかり楽しんだ。
帰途、今年最初の「きんぽうげ」をみつけた。
などなど、静謐で清浄で、自然の恵みあふれる文章がとても気に入りました。
この私記には、貧困生活、老いと死の受容、一方で若き日々への慕情などなど……人生のリアリティを語る名文も多いのですが、私はそういうシリアスな思索・人生観を踏まえた上での静かな自然描写がいちばん心に残りましたね。
年を取ってくると色々考えたり思い出したり表したくなったりするものですが、そういった能動的な心の働きよりも、自分のまわりにあるもの、移りゆくものを受け容れる受動的感謝的な心のありように惹かれるのです。
もちろん現実は受動的でなんていられなくて、自らきびきび能動的に生きていかなきゃいけないのですけれども、だからこそこうした現実離れした設定の隠遁随筆風物語に癒されるものがあります。
農村でひとり静かに本を読んだり散歩したりして暮らす内容の本と、異世界や過去の世界で無双する内容の本、心理的にはおおきく変わらないのかもしれない。
あと、この本の終盤で唐突に訪れるイギリス料理フォローラッシュが面白かったです。
イギリスの食物は質において世界最上のものであると思うのである。そして、イギリスの料理法は、気候温和な風土のものとしてはいかなる地方のものにもまさって健康的で美味なのだ。
イギリス流の料理法の目的とするところは、人間の滋養のもとであるなまの材料を調理して、健康な口に合うように、その生地そのままの風味を引き出すことにある。
どの肉も調理しているうちにそのもの本来の肉汁をだすのだ。これこそすべてのソースの中で考えられる最上のものである。「グレーヴィー」のなにものであるかはただイギリス人だけがしっている。ソースの問題について語る資格があるものはただひとりイギリス人あるのみ、といえるゆえんである。
われわれは薬味をあまり用いない。だが、用いている薬味そのものは人間が今までに作った最上のものである。しかもわれわれはその用いる「こつ」を心得ている。
野菜の話といえば、ちょうどいい加減にゆでたイギリス産のじゃが芋に匹敵するものが、はたしてこの人間の住む地上にありうるだろうか。
などなど……めっちゃ早口で言ってそうな勢いで何ページも熱く語ってはります。
他の事物のページではわりかし穏やかな知識人風なのに、イギリス料理のところだけ抜群の過激主義者になってはるのがイイ。
とは言え、こうした内容も、晩年のギッシングさんが異国フランスで生活苦に喘ぎながら故郷を渇望して執筆されていたものであることを思い起こせば……ビターです。
それにしても、「素材の持ち味を活かす」であったり、先ほど取り上げた「四季の恵みを喜ぶ」であったり、他のページでもしばしば登場する「島国イギリス独自の文化への誇り」であったりと、イギリス文学って日本人にも共感しやすいワードがしばしば出てきて興味深いですね。
紹介は尽きませんが、なんしか一人きりの時間を豊かにしてくれる本だと思いますのでとてもおすすめですよ。
何はともあれギッシングさんの御魂が安らかに眠ってはりますように。
「アナバシス 敵中横断6000キロ」クセノポンさん / 訳:松平千秋さん(岩波文庫) - 肝胆ブログ