肝胆ブログ

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「ポーツマスの旗 外相・小村寿太郎 感想」吉村昭さん(新潮文庫)

 

日露戦争の講和交渉をテーマにした小説「ポーツマスの旗」が緻密かつ実際的な描写を次々と味わうことができてかんたんしました。

 

www.shinchosha.co.jp

 

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著者は私が好きな吉村昭さんです。

入念な取材を基に執筆されているので何もかもが史実のように思えてしまいますから、そこはあえてフィクション、小説であることを念頭に置いて読むようにしています。

吉村昭さんの文章は実際にその場面に立ち会っていた、あるいは当事者が回顧録として執筆したかのような迫真味が素晴らしいですね。

 

 

小村寿太郎さんと言えば国辱的(と当時は捉えられていた)なポーツマス条約の締結当事者でありまして、あまり風体がイケメンという感じではないこともあり、長い間世間からの評判はよくなかったそうなんですが。

 

外交官としての手腕は卓越しており、この「ポーツマスの旗」ではデキる男としての小村寿太郎像がふんだんに描かれておりますよ。

明晰かつ誠実な洞察力・交渉能力、役目を果たしきる使命感・意志の力など、社会で活躍する上であらまほしき能力を次々と魅せてくださいます。

 

 

以下、当小説のネタバレを含みます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ストーリーとしては日露戦争の経緯を簡略に紹介いただいた後、日本海海戦等の戦果は素晴らしいものの国庫はスッカラカンでもはや戦線を維持することが難しいという事情の説明を経て、小村寿太郎さんが講和交渉の全権委任に選ばれ、ロシア代表のウイッテさんと極めて難易度の高い交渉をやり遂げ、ポーツマス条約の締結に至るも、日本では講和条約に対して「なんで賠償金取れねーんだよナメられやがって媚びやがって小村の糞が政府のボケが」みたいな状態で日比谷焼き討ち事件等が発生小村寿太郎さんの家族もデビルマン的群衆の襲撃を受けるという救われない展開に至り、小村寿太郎さんはその後も外交官として活躍するも家庭的には報われず寂しい最期を迎えるという流れであります。

 

まさに小村寿太郎さんが時代の生贄的な役割を果たされたかのような筋ですね……。

 

当時の日本の知識階層も賢いので、民衆の反応も含めて講和交渉の結果が「こうなるだろうな」というのは皆分かっていたのであります。

講和交渉の全権なんて、誰もがやりたくない仕事でした。

小説内でも伊藤博文さんが固辞したことが紹介されています。

 

 

吉村昭作品らしく、小村寿太郎さんが送った行程が詳細に描写されているのですが。

日本を発つときの仰々しいセレモニーの数々と、民衆の熱狂的な見送り。

随員の山座円次郎は小村に、

「あの万歳が、帰国の時に馬鹿野郎の罵声ぐらいですめばいい方でしょう。おそらく短銃で射たれるか、爆裂弾を投げつけられるにちがいありません」

と、暗い目をして言った。小村は群衆に眼を向けながら、

「かれらの中には、戦場にいる夫や兄弟、子供が今に帰してもらえるのだと喜んでいる者もいるはずだ」

と、つぶやいた。

 

アメリカ到着後も各地で行われる歓迎セレモニー、ルーズベルト大統領たちとの秘密裏の下交渉の数々、ロシアによる巧みなマスコミPR戦略、そして日本移民からも寄せられる期待。

小村は、久水領事からきいた話を思い起こしていた。昨年八月、貧しそうな日本人労働者が領事館を訪れてきた。久水は、帰国の船賃でも乞いに来たのかと思ったが、労働者は、ポケットから二十ドル金貨一枚を出し、僅かであるが祖国に寄付したいので送って欲しいと言った。男は、二十里以上も離れた地で鉄道工夫に雇われているが、金貨をとどけるために歩いてきたのだ、という。

 

こうした一つひとつの出来事、通常の人間に対しては極めて巨大なプレッシャーとして作用するに違いないと思うんですよね……。

自分の身に置き換えて想像すれば、交渉開始前から胃袋がズタズタになってそうです。

 

 

並行して日露間の諜報・暗号に関する暗闘なども取り上げられていて、交渉が始まる前の本来は地味なシーンなのにどのページも面白いのがさすがですよ。

 

 

続いて小説は中核のシーン、ロシア代表ウイッテさんとの交渉に移ります。

この場面は下交渉の段階から各条それぞれの議論までどれもこれも緊張感と実務的高品質判断に富んでいて実にいいんです。

 

私がいちばん好きなのは第七条の妥結に至るシーン。

ロシア(表向きは民間会社)が有する南満州の鉄道・炭鉱を日本に譲渡せよという内容なのですが、ウイッテさんはそれは民間マターなので国家が日本に譲渡する権限がない、と猛反発しはるのです。

そこへ、小村寿太郎さんが「断じて民間会社ではない」と、ロシアと清国間の鉄道敷設に対する秘密条約の内容を突然暴き始めて、ウイッテさんを激しく動揺させます。

小村寿太郎さん、さすがです。

そして、そこからのウイッテさんの巻き返しもいいんですよね。

ウイッテさんは秘密条約の内容をなんと正直に話した上で、

説明を終えたウイッテは、言葉をあらためると、

「小村男爵や栗野氏をはじめロシア駐在公使の任にあった方々は、私が個人として侵略主義に反対し、常に平和主義をとなえていたことを熟知しているはずである。私は、東清鉄道を平和利用の鉄道として敷設に努力したが、紙を切る小刀が時には人を傷つけるのに使われることがあるのと同じように、東清鉄道が私の意に反して軍事に利用されることもあるかも知れない。私は、あくまでも平和を愛する人間である。私の真情を理解して欲しい」

と、言った。

その切々とした言葉に、小村は、

「モスコーの秘密条約を口にしたのは、すべてを明白にした上で討議したかったからに過ぎない」

と、おだやかな口調で述べた。ウイッテは、

「貴方が真実を述べてくれたことに感謝する」

と言い、小村も、

「詳細で、しかも率直な説明に敬意と謝意を表したい」

と答え、議場に和やかな空気がひろがった。

 

と建設的な議論に移っていくのです。

どちらもナイスファイト! な印象を抱きます。

 

 

ですが……焦点たる賠償金と領土(樺太)の議論は、ロシア本国内のウイッテさんも手をつけられないような事情もあって、極めて厳しい状況に追い込まれます。

小村さんもウイッテさんも講和はしたい。平和を得たい。

一方で小村さんもウイッテさんも役目としては条件を緩めることなどできない。

妥結点が見つけられない……

胃袋を雑巾絞りにするような緊迫が続き、このままでは交渉は破談、アメリカから撤退もやむなし……となる本当に直前のタイミングで、日本政府が賠償金条件を下ろすことを決断し、辛うじてポーツマス条約締結と相成るのでした。

 

条約署名時の小村寿太郎さんのセリフがまたいいんですよね。

「両陛下が平和を心から望まれたことによって、ここに講和条約が成り、人道、文明に寄与されたことはまことに賞讃すべきことであります。今後、日露両国の友好に尽力することは私の義務であり、喜びでもあります」

 

私の義務であり、喜びでもあります。

いいフレーズです。無茶ぶりやきついノルマを前にしたときに言ってやりたい。

 

 

 

……ここで終わればハッピーエンドなのですけど。

 

小村寿太郎さんは心身の摩耗からか肺尖カタルに倒れ、日本では国民の暴動が起こり、妻子は暴徒に襲撃され、帰国後も彼へのバッシングは続きます。

そんな中でも小村寿太郎さんは敏腕な外交家としての役目を果たし続けますが……。

 

衰弱から身体は急速に衰え、外相辞任後、僅か3カ月で息を引き取ります。

享年56歳。

その後も小村寿太郎さんの名誉が恢復することは長い間ございませんでした。

 

 

 

そんな作品です。

現世に対する諦念が濃い内容かもしれませんが、筆致はあくまですこぶる芳醇ですよ。

 

以前(このブログを始める前)同じ吉村昭さんの「ニコライ遭難」「海の史劇」という日露関係の小説を読んでいて、それぞれが大変面白かったこと、

ゴールデンカムイが面白いこと、

さいきんの日露関係、

などなどの背景もあり、大変興味深く読ませたいただきました。

 

運命に殉じたかのような人の物語は胸を打ちますね。

 

 

こうした歴史の積み重ねの上で現代がある訳ですので。

なんやかやありますけど世界人類が平和でありますように