戦国時代の京都市街の様子を解説している本を入手できてかんたんしました。
前から読みたかったんですが、なかなか本屋さんに置いてなくて、webで注文するのもうっかり忘れていて、ようやく出会えた次第です。
変貌する〝戦国京都〟。 平安京の衰退、長きにわたる応仁の乱により、失われていった大路・小路。 一方、「上京」・「下京」の成立や、大路・小路から「通」への変化など、現代につながる新たな動きが。 次々に変化していく〝首都〟京都を、信長や秀吉たちはどのように支配したのか!?
タイトル通り、特定の戦国武将ではなく、戦国時代における京都の街並みや通りにフォーカスした本になります。
中世史の本は人物や家、組織を切り口にしたものが多いのですが、こうしたインフラや文化面からの研究は貴重ですし、読んでいて面白いですね。
「実像に迫る」シリーズということで、100ページ前後のボリューム、美麗なグラフィック資料満載という構成になっています。
とっつきやすいですし、歴史系の創作をする方等にとっては非常によい資料になると思いますよ。
かんたんに戦国時代の京都について紹介されている事柄を例示しますと、
- 主に上京(一条より北)と下京に分かれていたこと
- 上京と下京は、それぞれ「構」「惣構」とよばれる防壁に取り囲まれていたこと
- 街中にも田畠が多く、朝廷近くまで麦畑がせまっていたこと
- 高倉小路から東、五条大路から南は田畠や河原が広がっていたこと
- 平安時代に築かれた「大路」「小路」は、道路の一部まで宅地や田畠として利用されるようになり(巷所という)、道幅がかなり狭くなっていたこと
(「大路」という言葉が消えていき、主に「通」と呼ばれるように) - 道路をはさんだ両側の町屋が「町」として共同体を形成していったこと
- 各町の出入り口には「木戸門(釘抜という)」が立てられていたこと(交差点には四つの木戸門が設置されている)
- 室町通が上京と下京を結ぶ中心軸として活用され、賑わっていたこと
- 三条、錦小路、六角、町通(新町通)界隈は、下京経済の中心軸であったこと
- 三条室町、あるいは三条烏丸に米市場があったこと
- 室町から烏丸への米市場移転も含め、天文法華の乱による街並みの変化の影響が大きかったと想定されること
- 上京では上立売通が重視され、細川京兆家屋敷や近衛家屋敷があったこと
- 下京では四条通が重視され、鴨川に四条橋・五条橋が架けられていたこと(三条橋は豊臣秀吉さん以降)
- 四条通は東西の防備も厚かったが、天文法華の乱の際は、延暦寺・六角家連合軍にあっけなく突破されてしまったこと
- 五条通は京の南端、境界として意識されていたこと
- 上京があってもなお、一条通は京の北端として意識され、上京は洛外として認識されていたこと
- 足利義輝さん⇒足利義昭さん⇒織田信長さん⇒豊臣(羽柴)秀吉さんと、武家の実力者はなぜか二条通に屋敷や居所を構えていたこと
- 以上のような京の様子は、豊臣秀吉政権により、三条橋の架橋、聚楽第の築城と聚楽町の建設、御土居(京を堡塁と濠を有する高い城壁で囲む)の建設と町の木戸門の撤去、新たな竪(縦)小路「つきぬけ」の増設、町屋の平屋禁止二階建化による人口増対策……等々により、大きく様変わりし、近世に繋がっていくこと
……といったところです。
随所に上杉本洛中洛外図屏風や古記録の画像を挟んで分かりやすくイラスト解説してくださいますので助かります。
木戸門なんかは江戸時代の時代劇にもよく出てきますが、中世から既にこうした自治的防備の工夫がされていたんですね。
ときどき登場する「天文法華の乱」という影響が甚大な大イベントにドン引きしたり、掲載されている足利義輝さんの肖像画があばた面(ニキビ跡?)の下絵ver.(完成品では跡を消されたやつ)でちょっと気の毒だったり、当時の祇園祭山鉾巡業ルートが検証されていたり、参考に載っている昭和初期の四条大橋画像に「おぉ」となったりと、見どころが実に豊富で面白いです。
京の街並みは平安京から続く記録や研究の蓄積が豊富でいいですね。
こうした切り口の研究が、ぜひぜひ他の地域にも横展開されていきますように。