ルソーさんの死の直前に書かれた随想「孤独な散歩者の夢想」が、痛ましすぎる文章の端々に哀しくも美しい言葉が満ちていてかんたんしました。
ルソーさんは世界史の教科書にも「啓蒙思想家」「社会契約論」というフレーズとともに登場しますが、その具体的な思想や歴史上の位置づけは極めて難易度が高いので私の手には負えませんから残念ながら詳しくは紹介できません。
ただ、ルソーさんが活躍した18世紀(フランス革命前夜頃)の時点では、彼の唱える思想や考え方は新し過ぎた、過激過ぎたことから、彼は知識人や宗教界からそうとう過激な迫害を受けていた模様でして。
この晩年の作品「夢想」でも、
わたしは地上でたったひとり
かずかずの侮辱と際限のない無礼をあらゆる方面から浴びせかけられている
わたしはかれらを憎むよりは、かれらからのがれたい。
などと、世の中から自分がつまはじきにされていることを前提に、その上で自分がいま思うこと……というスタンスで文章が続いていきます。
ルソーさんのいう迫害が100%史実なのか、彼の思い込みが混じっているのかは私には判別できませんが、彼主観では100%自分は孤独、ひとりきりなのです。
これは陰キャどころじゃないですね。
ガチ隠者です。
今後の私の人生で、何らかの事情で同じような境遇に遭うことがあれば……
間違いなく私はこの「夢想」を思い出すことになりそうです。
文章から彼の精神がいかに傷ついているかがビシビシ伝わってくるので、初めのうちは読み進めるだけで痛ましくてつらいくらいなのですが……。
ルソーさんが、人のいない郊外を散歩すること、過去のよき記憶を思い起こすこと、植物の観察に身を投じること、等々を通じて、小さな心の安定、小さな幸せを噛みしめようとする姿勢の一つひとつに、心を動かされるものがございます。
忍耐、柔和な心、諦念、廉潔、公平無私の正義、これらはおのれとともに携えていける財産なのであって、それはたえず豊かにすることができるし、死に臨んでもわたしたちにとってその価値が失われる心配はない。
この唯一の有益な研究にこそわたしは残された老後の生活を捧げる。
(第三の散歩より)
魂が十分に強固な地盤をみいだして、そこにすっかり安住し、そこに自らの全存在を集中して、過去を呼び起こす必要もなく未来を思いわずらう必要もないような状態、時間は魂にとってなんの意義ももたないような状態、いつまでも現在がつづき、しかもその持続を感じさせず、継起のあとかたもなく、欠乏や享有の、快楽や苦痛の、願望や恐怖のいかなる感情もなく、ただ私たちが現存するという感情だけがあって、この感情だけで魂の全体を満たすことができる、こういう状態があるとするならば、この状態がつづくかぎり、そこにある人は幸福な人と呼ぶことができよう。
(略)
そのような境地にある人はいったいなにを楽しむのか? それは自己の外部にあるなにものでもなく、自分自身と自分の存在以外のなにものでもない。この状態がつづくかぎり、人はあたかも神のように、自ら充足した状態にある。
(第五の散歩より)
わたしは、人間の自由というものはその欲するところを行うことにあるなどと考えたことは決してない。それは欲しないことは決して行わないことにあると考えていたし、それこそわたしがもとめてやまなかった自由、しばしばまもりとおした自由なのであり、また、なによりもそのために同時代人を憤慨させることになったのだ。
(第六の散歩より)
どんな境遇にあろうとも、人がたえず不幸であるのはただ自尊心のせいなのである。自尊心が黙し、理性が語るとき、やがて理性はわたしたちの力では避けることのできない不幸を慰めてくれる。
(八より)
ああ! 彼女がわたしの心を満足させてくれたように、わたしも彼女の心を満足させることができたなら!
(十より)
こうした言葉の数々に、噛みしめるべき知恵と、洋の東西なしに賢人が至った域の偉大さと、覆い隠せない痛みと、(憚りながらの)共感とを抱くんですよね。
すごい本だと思います。
やや難解なテキストですが、200ページ弱ですので読みやすいですし、得るものも大きいと思いますよ。
(若干医療関係者や工/鉱業関係者や荒野在住者には失礼な描述もありますが笑)
孤独な賢人が夢想の果てに辿りついた知恵が、ほかの孤独な人の心を癒してくれますように。