正岡子規さんが病床で記した短編小説(エッセイ?)「犬」「蝶」が子規さん独特のユーモアや美的センスを醸し出しつつ隠しようもない諦念と哀しみに直面させられる佳品でかんたんしました。
それぞれ1-2分で読める作品ですので、内容を伏せることなくご紹介します。
「犬」は
- インドで王の愛犬を殺した男が死刑になり
- 日本の信州で野良犬に生まれ変わり
- 姥捨山で捨てられた姥を88人食べて命を繋いでいたが
- 善光寺で罪を懺悔し人間に生まれ変わりたいと願うようになり
- 阿弥陀様のお告げに従って各地を旅し
- 遂には四国八十八箇所を八十七箇所まで巡り
- 八十八箇所目の門前で力尽き倒れてしまったが、眼前の地蔵様が、犬に大願成就を約束してくれた
- 犬の遺骸は88羽の烏に襲われたが、通りがかりの僧が烏を追い払った
- だが、実は烏は犬が喰い殺した姥の怨霊だったので、烏を追い払ったことで姥殺しの罪が消え切らず
- 犬は人間に生まれ変わることはできたが、病気と貧乏に苦しみ続ける宿命だった
- それが僕さ!
というもの。
「蝶」は
- うららかであたたかな日
- 白い蝶と黄色い蝶が隠れんぼをして遊んでいるよ
- 「山女郎(他種の蝶? 女郎蜘蛛?)」に追いかけられたりもしつつ
- 蝶はお屋敷の牡丹の花に包まれて眠りにつくよ
- いつしか日は暮れ、天上では美の神も舞踏に興じている――
- ――僕は蝶が好き。「女王」と冠して収集もしている
- 病床で寒さに震えていると、外で近所の子どもが「あれ蝶々が」と騒いでいるのが聞こえてきて、心の中にかすかな春が生じた――
というものです。
「犬」は、
やれるだけの懺悔・善事を尽くした犬が、最後の最後で「持っていない」「ネットにはじかれたテニスボールがこちらに落ちる」ようなかたちで幸福を掴み切れない様が。
全体的にユーモア感のある文体とのギャップが大きくて、正岡子規さんが抱いている諦念・無念が際立っているように感じられます。
「蝶」は、
偶然聞こえてきた近所の子どもの何気ない声だけが、春の訪れを感じさせてくれるという事実が。
幻想的で美しい蝶の物語とのギャップが大きくて、正岡子規さんの哀しみ・侘しさが際立っているように感じられます。
以前、「仰臥漫録」なども読んだことがございますが、死を間近にした正岡子規さんの文章は、病床から目に映る様子……訪問者、食事、室内の設え、庭……や、自身内部の感情や煩悶や苦しみ等々、限られた範囲から得られたインプットを淡々と粛々と記していて、それだけに胸を打つものがございます。
大きなドラマで大きく感情を揺さぶられるというより、
まさに俳句的な、染み入るように胸を打つ読後感なんです。
才能の早世は、どれだけ美しくても哀しさが勝りますね。
正岡子規さんの死から既に100年以上。
既に生まれ変わっておられるならば、より良い定業に恵まれ、全身で春を喜べるような暮らしを送っておられますように。