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小説「逆軍の旗 感想 明智光秀/戸沢藩暗闘/南部藩仇討ち/上杉鷹山」藤沢周平さん(文春文庫)

 

大河ドラマ麒麟がくる」をきっかけに藤沢周平さんの明智光秀短編「逆軍の旗」、および同収録の「上意改まる」「二人の失踪人」「幻にあらず」を読んでみたところ、いずれも場景がひたひたと目に浮かぶような筆致に胸を打たれかんたんしました。

 

books.bunshun.jp

 

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藤沢周平さんの文章は、大げささや煩ささがなくて、写実的で、丁寧に抒情を拾い取ってくれているような感じがしていいですね。

 

以下、ネタバレを含みますのでご留意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当文庫に収録されているのは次の4品です。

  • 逆軍の旗(明智光秀さんの本能寺の変前後を描く)
  • 上意改まる(戸沢藩の家老同士の暗闘を描く)
  • 二人の失踪人(南部藩の農民による仇討ち譚を描く)
  • 幻にあらず(米沢藩上杉鷹山さん、竹俣当綱さんの活躍を描く)

 

おおむね史実や記録に沿って、小説のかたちで描写した作品群と思われます。

 

以下、それぞれ見どころとお気に入りの一節の紹介を。

 

 

逆軍の旗

本能寺の変前後の明智光秀さんの心情を描写する作品でして、本能寺の変そのものの様子や、山崎の戦以降の顛末は描写されません。

 

見どころは、明智光秀さんは「織田信長さんの狂気が怖い」「このままでは自分も殺される」「殺られる前に殺る」という、極めて素直な動機で本能寺の変を起こすのですが、一方で明智秀満さんたち側近は「じゃあ殿が天下の主になるんですね!」と盛り上がっていく対比描写。

 

細川藤孝さんや筒井順慶さんの動向もあり、明智光秀さんがものすごく暗い気持ちを抱えたまま山崎の戦直前で物語が終わるという、爽やかさの欠片もない暗澹、希望のなさが秀逸ですね。

 

天下の主という位置に何の執着もあるわけではない。いまそのために働いているのは、信長襲殺といういわば非道な企てに加担して働いた、配下の将士への思い遣りのようなものだった。細川父子にあてた覚書の中で、近国を平定したら、あとは息子の十五郎、与一郎忠興などに引き渡して隠居すると書いたのも、ある程度本音だった。

――間に合わんな。

光秀は呻くように思った。天下を争う者らしく、秀吉とは対等の力で兵を交えてみたかった。戦場の駆け引きで、秀吉に後れをとるとは思わない。だがいまの兵力では、秀吉の大軍に勝てる筈がなかった。敗れれば、ひとりの反逆者の名が残るだけである。そのもっとも惨めな場所に、光秀を追い詰めようとして、秀吉はやってくるようだった。

 

 

 

上意改まる

戸沢藩(新庄藩)において、片岡家と戸沢家という家老同士が暗闘するお話でして、スカッとする要素はなく、片岡家が陰謀に嵌まって族滅されるという悲惨な内容です。

 

陰惨ではありますが、大目付の北条六右衛門さんが格好よかったり(陰謀を止めるまではできませんでしたが)、その娘の郷見さんがいじらしかったりしまして、彼らの描写が好きです。

片岡家の藤右衛門さんと郷見さんの逢瀬、いかにも映像映えしそう。

 

冬の間戸沢藩城下は雪に埋もれる。人の往き来さえしばしば途絶える深い雪である。思う人を諦めるにふさわしい季節だった。二十五の片岡藤右衛門に、それが容易なわけはなかったが、雪が消え、周囲を山に囲まれた盆地に色彩が戻ったとき、藤右衛門は郷見の面影がやや遠くなったのを感じた。

ただ胸の底に、昔は知らなかった暗い哀しみのようなものが残り、そのために藤右衛門は以前より寡黙になった。

 

 

 

二人の失踪人

南部藩雫石の農民が、水戸藩那珂湊で見事に父の仇討ちを果たす、というお話です。

藤沢周平さんによれば、題材の元ネタである南部藩士横川良助さんが書いた「内史略」という書の原文自体が「立派で香気がある」ということで。

 

仇討ちそのものよりも、仇討ち後の南部藩水戸藩との行政作法描写が面白いですね。原文の内史略を参考にしたものと思われますが、南部藩使節水戸藩現地に赴いて仇討ちを遂げた者の身元を証明する流れとか、当時の価値観や文化がクリアに伝わってくるようで一読の価値があるように思います。

仇討ちの仇討ちを防ぐため、「帰国の際は関係者全員が同じ着物を着て、誰が仇討ちを遂げた者か分からないようにする」「仇討ちを遂げた者の名を偽名にして帰国する」なんて事例も興味深いですね。

 

庄助はじっくりと丑太の顔、身体つきを眺めてから言った。

「そなたは、どこの国のものか」

丑太は初めてちらと眼を挙げたが、庄助の緊張した表情をみると、尋常に答えた。

「盛岡領雫石村の丑太と申します」

「宗旨は何宗で、寺号は何と言うか」

「済家宗で、お寺は臨済寺と申します」

「私に見覚えがあるか」

「わが村の庄助どのでございましょう」

庄助は孫之助の方を指した。

「あそこにいるのが誰か、解るかな」

「叔父の孫之助でございます」

丑太の声が顫えを帯びた。たまり兼ねたように孫之助が言った。

「これは、甥の丑太に相違ありません」

「私もそのように見届けた」

庄助は言ったが、さらに問いかけた。

「父の仇を討ったことに相違ないな」

「はい。ご当所で、三月二日父の仇村上源之進を討ち留めましたことに相違ありません」

庄助はゆっくり座を立ち、元の席に戻ると大内清右衛門に向かっていった。

「ごらんの通りでございます。見分しましたところ、国元雫石村百姓安五郎の弟、丑太に相違ございません」

「ごくろうでござった」

大内も丁寧に答えた。

「見届けが済んで、我我もほっと致した。貴藩のご主君に申し上げられたら、さぞご満足なさることと思われる」

大内の言葉を聞きながら、庄助は緊張がゆるやかに解けるのを感じた。

――大切な役目が終わった。

 

 

 

幻にあらず

米沢藩、上杉治憲(鷹山)さんと 竹俣当綱さんの藩政改革を題材にした作品で、森利真さんの粛清や七家騒動等が描写されます。

 

よく世間で知られている通りに上杉治憲さんも竹俣当綱さんも有能で敏腕なんですけれども、そうした一代の優秀な人々を以てしてもなかなか解消されない上杉家の窮乏っぷりの描写がすごくて、やはり明るい作品ではないんですけれども、現実の様々な企業や自治体や組織で長年の旧弊に苦しむ人々に「逃げぬこと」「諦めぬこと」の大事を実感させてくださるように思えます。

 

ラスト、藩政改革に疲れて引退を願う竹俣当綱さんに対して上杉治憲さんが叱咤する場面は、役目に任期を設けてしまうサラリーマンと、逃げる先がないオーナーとの対比のようにも思えて好きですね。

 

当綱は微笑した。治憲は、その微笑に思わず背筋が冷たくなるような感じを受けた。当綱は、あるいは米沢藩の建て直しが、ついに実ることがないのを見通したのかもしれないという気がしたのである。だから身をひこうとしている。

「幻ではないぞ、当綱」

思わず治憲は、叱咤するように言った。藩建て直しに、ちらとでも疑問を持った自分を叱った声でもあった。藩主には身をひく場所はない。

 

 

 

 

かように、この短編集は明るさやロマンやダイナミズムはありませんけれども、人々の営みや心情を粛々と実際的に描いてくれている歴史小説なので私は好きです。

 

こうした、疲れたり、嵌められたり、見通しを失ったりした人に対して、小説という光を当ててくれているのは、それ自体が優しい行為のように思えます。

誰かが見てくれていて、もしかしたら誰かの心を打っているかもしれない、という救いがありますよね。

 

現在を生きる疲れた人々に対しても、あたたかい眼差しや支援が届きますように。