肝胆ブログ

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「光と風と夢 感想 特に後半が好き」中島敦さん(青空文庫)

 

中島敦さんの南洋もの小説「光と風と夢」を読んでみたところ、はじめは西洋人の日記文学エミュレーターっぷりすげぇなと感心していたのですが、後半に進むにつれ主人公の自我の起伏がえらいことになってそれがまた大層美しいなとかんたんいたしました。

 

www.aozora.gr.jp

 

 

 

内容としましては「宝島」「ジキルとハイド」の著者として有名なイギリス人ロバート・ルイス・スティーヴンソンさんの晩年、南洋のサモアで過ごした日々を描く内容となっています。

 

以下、展開のネタバレを含みますのでご留意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

序盤はスティーヴンソンさんが回顧するかたちで彼の半生や病弱っぷりを紹介したり、南洋の暮らしを紹介したりします。

 

遠く西洋社会を離れてそれなりに快適な療養生活をサモアで送っている訳ですけれど、話のあう友人が少ないのがたまに胸にくる、という描写がリアルですね。

友人! 何と今の私に、それが欠けていることか! (色々な意味で)対等に話すことの出来る仲間。共通の過去を有った仲間。会話の中に頭註や脚註の要らない仲間。ぞんざいな言葉は使いながらも、心の中では尊敬せずにいられぬ仲間。この快適な気候と、活動的な日々との中で、足りないものは、それだけだ。

 

会話の中で余計な注釈が要らない関係、という友情の表現が好きです。

 

 

 

中盤はサモアにおける西洋諸国・現地人が入り乱れる政争に介入したりします。

 

政争介入時のスティーヴンソンさんは大変人道的な計らいをする方として描かれているのですが、それよりも印象的だったのは内紛で傷ついた現地の若者に対する描写。

二度目に病院に寄った時、看護婦や看護卒は一人もいず、患者の家族だけだった。患者も附添人も木枕で昼寝をしていた。軽傷の美青年がいた。二人の少女が彼をいたわり、共に左右から彼の枕に枕しておった。他の一隅には、誰も附添っていない一人の負傷者が、打捨てられ、毅然たる様子で横たわっていた。前の美青年に比べて、遥かに立派な態度と映ったが、彼の容貌は美しくはなかった。顔面構造の極微の差が齎す何という甚だしい相違!

 

サラッと古今東西変わらぬ現実が胸をえぐってきますね。

中島敦さん、こういう事象も拾うんだなあ。

 

 

 

そして、後半は急速に体調が悪化し、それにつれて精神面も躁鬱気味にアップダウンが激しくなる様が描かれます。

 

特に好きな場面がふたつありまして、

 

ひとつは16章で、酔っぱらってぶっ倒れたら、サモアの風景が故郷エジンバラに見えてしまったという箇所。

その時、うっすらと眼覚めかけた私の意識に、遠方から次第に大きくなりつつ近づいて来る火の玉の様に、ピシャリと飛付いたのは、――あとから考えると全く不思議だが、私は、地面に倒れていた間中、ずっと、自分がエディンバラの街にいるものと感じていたらしいのだ――「ここはアピアだぞ。エディンバラではないぞ」という考であった。此の考が閃くと、一時はっと気が付きかけたが、暫くして再び意識が朦朧とし出した。ぼんやりした意識の中に妙な光景が浮び上って来た。

私はよろよろ立上り、それでも傍に落ちていたヘルメット帽を拾って、其の黴臭い・いやなにおいのする塀――過去の、おかしな場面を呼起したのは、此のにおいかも知れぬ――を伝って、光のさす方へ歩いて行った。塀は間もなく切れて、向うをのぞくと、ずっと遠くに街灯が一つ、ひどく小さく、遠眼鏡で見た位に、ハッキリと見える。そこは、やや広い往来で、道の片側には、今の塀の続きが連なり、その上に覗き出した木の茂みが、下から薄い光を受けながら、ざわざわ風に鳴っている。何ということなしに、私は、其の通を少し行って左へ曲れば、ヘリオット・ロウ(自分が少年期を過したエディンバラの)の我が家に帰れるように考えていた。再びアピアということを忘れ、故郷の街にいる積りになっていたらしい。暫く光に向って進んで行く中に、ひょいと、しかし今度は確かに眼が覚めた。そうだ。アピアだぞ、此処は。

 

病の進行、寿命の僅かさ、あるいはホームシック的な感傷が生んだ幻覚でしょうか。

小説執筆や政治関与で精神がいかに摩耗しているか、こうした描写からひしひし伝わってくる気がします。

 

 

もうひとつは、19章のラスト、いよいよスティーヴンソンさんの心身が限界を迎えつつある局面での風景描写。

夜はまだ明けない。
私は丘に立っていた。
夜来の雨は漸くあがったが、風はまだ強い。直ぐ足下から拡がる大傾斜の彼方、鉛色の海を掠めて西へ逃げる雲脚の速さ。雲の断目から時折、暁近い鈍い白さが、海と野の上に流れる。天地は未だ色彩を有たぬ。北欧の初冬に似た、冷々した感じだ。

一時間もそうしていたろうか。
やがて眼下の世界が一瞬にして相貌を変じた。色無き世界が忽ちにして、溢れるばかりの色彩に輝き出した。此処からは見えない、東の巌鼻の向うから陽が出たのだ。何という魔術だろう! 今迄の灰色の世界は、今や、濡れ光るサフラン色、硫黄色、薔薇色、丁子色、朱色、土耳古玉色、オレンジ色、群青、菫色――凡て、繻子の光沢を帯びた・其等の・目も眩む色彩に染上げられた。金の花粉を漂わせた朝の空、森、岩、崖、芝地、椰子樹の下の村、紅いココア殻の山等の美しさ。
一瞬の奇蹟を眼下に見ながら、私は、今こそ、私の中なる夜が遠く遁逃し去るのを快く感じていた。

 

南洋ならではの美しい夜明けとスティーヴンソンさんの内面とが素晴らしくリンクしていて、物語のクライマックスとして充分過ぎる味わいがあるように思います。

 

 

こうした鮮やかな場面を中島敦さんが描いているというのがまたいいんです。

中島敦さんといえば「李陵」「山月記」が著名で、漢文調のストイックな文章を紡ぐ印象が強いのですけれども、こうした西洋人風の文章や南洋極彩色な描写もたいへんお上手なんですね。

本当に懐の深い作家さんで、33歳で早世されたのが惜しまれます。

 

 

中島敦さんという素晴らしい入口を通って、中国古典や南洋社会へ好奇心を抱く方がこれからも多くいらっしゃいますように。