肝胆ブログ

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小説「蜜のあはれ 感想 室生犀星さんの性癖マジすげぇ」(青空文庫)

 

室生犀星さんの金魚擬人化幻想小説「蜜のあはれ」を読みましたら、70歳の著者が書いたとは思えないくらいぶっ飛んだ性癖描写が盛りだくさんでかんたんしました。

ふるさとを遠きにありて思ふことで定評のある室生犀星さんのイメージがガラリと変わってしまいましたねこれは。

 

www.aozora.gr.jp

 

 

 

「蜜のあはれ」は、金魚がちんぴら美少女に変身して老小説家と同棲する物語です。

 

ストーリーは不可思議なもので、

  • 金魚娘が「あたい、言ってやったわ。~~……」とわめいたり、
  • 金魚娘と老小説家がいちゃいちゃしたり、
  • 金魚娘と女幽霊と老小説家で三角関係したり、
  • 金魚娘を他の雄金魚に寝取らせて老小説家がその子どもを育てようとしたりする、

たいへん怪しい作品になっています。

1959年の作品と思えないような斬新さがありますね。

 

よく考えたら、ウマを擬人化したゲームが流行った2021年のコンテンツシーンにハマる作品かもしれません。

 

 

作品の特徴としては、

  • 地の文がなく会話だけで話が展開していくテンポのよさ、
  • コケティッシュな美しさのある文章、
  • そして何よりも倒錯した性癖描写の数々、

に目を引かれます。

 

 

幾つか印象に残った箇所を引用いたしますと。

 

金魚にお尻(お臀)の美しさを力説する老小説家。ハイレベルです。

「一たい金魚のお臀って何処にあるのかね。」
「あるわよ、附根からちょっと上の方なのよ。」
「ちっとも美しくないじゃないか、すぼっとしているだけだね。」
「金魚はお腹が派手だから、お臀のかわりになるのよ。」
「そうかい、人間では一等お臀というものが美しいんだよ、お臀に夕栄えがあたってそれがだんだんに消えてゆく景色なんて、とても世界じゅうをさがして見ても、そんな温和しい不滅の景色はないな、人はそのために人も殺すし自殺もするんだが、全くお臀のうえには、いつだって生き物は一疋もいないし、草一本だって生えていない穏かさだからね、僕の友達がね、あのお臀の上で首を縊りたいというやつがいたが、全く死場所ではああいうつるつるてんの、ゴクラクみたいな処はないね。
「おじさま、大きな声でそんなこと仰有ってはずかしくなるじゃないの、おじさまなぞは、お臀のことなぞ一生見ていても、見ていない振りしていらっしゃるものよ、たとえ人がお臀のことを仰有っても、横向いて知らん顔をしていてこそ紳士なのよ。」
「そうはゆかんよ、夕栄えは死ぬまでかがやかしいからね、それがお臀にあたっていたら、言語に絶する美しさだからね。」

 

 

 

金魚とキスする老小説家。ハイレベルです。

「はい、干鱈。」
「こまかく刻んでくだすったわ、塩っぱくていい気持、おじさま、して。」
「キスかい。」
「あたいのは冷たいけれど、のめっとしていいでしょう、何の匂いがするか知っていらっしゃる。空と水の匂いよ、おじさま、もう一遍して。」
「君の口も人間の口も、その大きさからは大したちがいはないね、こりこりしていて妙なキスだね。」
「だからおじさまも口を小さくすぼめてするのよ、そう、じっとしていてね、それでいいわ、ではお寝みなさいまし。」

 

 

 

金魚とうんこについて語り合う老小説家。ハイレベルです。

「おじさまはとても図太いことばかり、はっとすることをぬけぬけと仰有る。そうかと思うと、あたいのお尻を拭いてくださるし……」
「だってきみのうんこは半分出て、半分お尻に食っ附いていて、何時も苦しそうで見ていられないから、拭いてやるんだよ、どう、らくになっただろう。」
「ええ、ありがとう、あたいね、何時でも、ひけつする癖があるのよ。」
「美人というものは、大概、ひけつするものらしいんだよ、固くてね。」
「あら、じゃ、美人でなかったら、ひけつしないこと。」
「しないね、美人はうんこまで美人だからね。
「では、どんな、うんこするの。」
「固いかんかんのそれは球みたいで、決してくずれてなんかいない奴だ。」
「くずれていては美しくないわね、何だかわかって来たわよ。」
「きめの繊かいひとはね、胃ぶくろでも内臓の中でも、何でも彼でも、きめが同じようにこまかいんだよ、うんこも従ってそうなるんだ。」

 

 

 

金魚のNTRを楽しむ老小説家。ハイレベルです。

「何だ、お腹なんか撫でて。」
「あのね、どうやら、赤ん坊が出来たらしいわよ、お腹の中は卵で一杯だわ、これみな、おじさまの子どもなのね。」
「そんな覚えはないよ、きみが余処から仕入れて来たんじゃないか。」
「それはそうだけれど、お約束では、おじさまの子ということになっている筈なのよ、名前もつけてくだすったじゃないの。」
「そうだ、僕の子かも知れない。」
「そこで毎日毎晩なでていただいて、愛情をこまやかにそそいでいただくと、そっくり、おじさまの赤ん坊に変ってゆくわよ。」
どんな金魚と交尾したんだ。
「眼のでかい、ぶちの帽子をかむっている子、その金魚は言ったわよ、きゅうに、どうしてこの寒いのに赤ん坊がほしいんだと。だから、あたい、言ってやったわ、或る人間がほしがっているから生むんだと、その人間はあたいを可愛がっているけど、金魚とはなんにも出来ないから、よその金魚の子でもいいからということになったのよ、だから、あんたは父親のケンリなんかないわ、と言って置いてやった。」

 

 

 

金魚にくぱぁさせて楽しむ老小説家。ハイレベル過ぎます。

「慍って飛びついて来たから、ぶん殴ってやった、けど、強くてこんなに尾っぽ食われちゃった。」
「痛むか、裂けたね。」
「だからおじさまの唾で、今夜継いでいただきたいわ、すじがあるから、そこにうまく唾を塗ってぺとぺとにして、継げば、わけなく継げるのよ。」
「セメダインではだめか。」
「あら、可笑しい、セメダインで継いだら、あたいのからだごと、尾も鰭も、みんなくっついてしまうじゃないの、セメダインは毒なのよ、おじさまの唾にかぎるわ。いまからだって継げるわ、お夜なべにね。お眼鏡持って来ましょうか。」
「老眼鏡でないと、こまかい尾っぽのすじは判らない。」
「はい、お眼鏡。」
「これは甚だ困難なしごとだ、ぺとついていて、まるでつまむ事は出来ないじゃないか。もっと、ひろげるんだ。
「羞かしいわ、そこ、ひろげろなんて仰有ると、こまるわ。」
「なにが羞かしいんだ、そんな大きい年をしてさ。」
「だって、……」
「なにがだってなんだ、そんなに、すぼめていては、指先につまめないじゃないか。」
「おじさま。」
「何だ赦い顔をして。」
「そこに何かあるか、ご存じないのね。」
「何って何さ?」
「そこはね、あのね、そこはあたいだちのね。」
「きみたちの。」
「あのほら、あのところなのよ、何て判らない方なんだろう。」

「騙してなんかいるものか、まア型ばかりのキスだったんだね。じゃ、そろそろ、尾っぽの継ぎ張りをやろう。もっと、尾っぽをひろげるんだ。
「何よ、そんな大声で、ひろげろなんて仰有ると誰かに聴かれてしまうじゃないの。」
「じゃ、そっとひろげるんだよ。
「これでいい、」
「もっとさ、そんなところ見ないから、ひろげて。」
「羞かしいな、これが人間にわかんないなんて、人間にもばかが沢山いるもんだナ、これでいい、……」
「うん、じっとしているんだ。
「覗いたりなんかしちゃ、いやよ。あたい、眼をつぶっているわよ。」
「眼をつぶっておいで。」

 

 

 

いやあ。

1950年代カルチャーの固定観念が崩れ去るような驚きの作品でございますね。

 

はえぇぇぇ……と、口を開けてかんたんしながら読ませていただきました。

 

文章全体を通して伝わってくる独特のモダンな美的感性が楽しい小説ですので、幻想性ある創作作品に惹かれる方には性癖抜きにおすすめしたいと思います。

 

 

それにしても室生犀星さん、死の3年前、70歳になってからこういうクリエイティブな小説を書かれているってのが素晴らしいですね。

たぶん執筆していてめちゃくちゃ楽しかったんじゃないでしょうか。

 

現代の偉大なクリエイター方も、晩年まで精力的に活躍いただいて、むしろ晩年こそが充実した実り多きものとなりますように。