肝胆ブログ

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「ドン・フワン・テノーリオ 感想 キリスト教戯曲の大乗仏教的美しさ」作:ホセ・ソリャーサ / 訳:高橋正武(岩波文庫)

 

宗教幻想劇「ドン・フワン・テノーリオ」を読んでみましたら、いい意味でキリスト教らしい救済のされようが美しくてかんたんしました。

紀州ドンファン事件」の報道を見て軽い気持ちで読んでみたんですけど、想像以上に内容がよかったので何事もきっかけだなあと思います。

 

www.iwanami.co.jp

 

 

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ドン・フワン(ドンファン)さんは、スペインのセビーリャという街における伝説的な人物で、17世紀から作劇の対象となり、徐々にヨーロッパ全土にドン・フワン演劇が広まっていき、様々なタイプのドン・フワンさんが創作されていったとのことです。

いずれの創作作品でもドン・フワンさんは色事と暴力、要はセックス&バイオレンスな色男として描かれているようですね。

 

そうした流れの中、19世紀にホセ・ソリャーサさんによって描かれたこちらの「ドン・フワン・テノーリオ」はとりわけ完成度の高い演劇で、ドン・フワンさん物語を単なるセックス&バイオレンスドラマに留めることなく、大いなる神の愛によりドン・フワンさんの御魂が救われるまでを描く宗教幻想劇になっているのが特徴です。

 

このキリスト教的な救済のされっぷりが、大乗仏教の味わいにも通じるような大変魅力的なセリフ・演出で描かれていまして、古典的ながら現代人が見ても充分に面白い傑作になっているように思いました。

解説含めて200ページほど、すぐに読める分量ですので、西洋文学や神仏の慈悲に関心がある方は手に取ってみるといいんじゃないでしょうか。

 

 

もちろん、当作品のドン・フワンさんもベースはとんだ外道野郎でして、物語開始時点で殺人数は32人に及びますし、手籠めにした女性は上は宮廷の姫君から下は漁師の娘まで72人という数にのぼります。

 

スゲェ。

 

暴力も計略も得意な人物なのでそういうレコードを記録するのですけれども、一方でどこか勇敢っぽいところや騎士っぽい面も持ち合わせていて、しかもイケメンで金持ちで、しかも心の底では神の救いを求めていたりもするので、憎みきれないところが憎い感じの人物に造形されているんですよね。

もう男の魅力の欲張りセットです。

 

 

名ゼリフも多くて。実際に劇場で聞いたら楽しいだろうなあ。

おれは、けっして、ぐずぐずしない男なんだ。 

そこにある女の数で一年三百六十五日を割ってみろ。睦言をかわすのに一日、手に入れるのに一日、相手を取りかえるのに二日、忘れるのには、ただの一時間。

君に勝ったのは、謀ったからさ。しかし、そこが、ドン・フワンらしいところさ。

そしてまた、このドン・フワンの唇から洩れだして、あなたの胸にそうっと浸みこんでいく、わたしのことばと、あなたの胸の底で、まだ燃え出していない炎をかきたてる、その思いとは、ねえ、わたしの星なる人よ、愛の息吹きを交わしているのじゃないでしょうか。

――おれは天を呼んだ。しかし、天は答えなかった。天の扉は、おれには閉ざされている。おれの足は地上をいく。その責任は天が負え。おれは知らない。

放せ、その手を放してくれ。おれの生涯の、最後の砂の一粒が、まだ時計の底に残っている。刹那の悔悟が魂の永劫の済度となるならば、聖なる神よ、わたしはおん身を信じます。わたしの罪業はまことに前代未聞。ただし、神のご慈悲も、広大無辺! 神よ、わたしにご慈悲を垂れたまえ! 

 

この、人が尽くせるだけの悪を尽くしてもなお、人知の及ぶところでないビッグな愛で人を救ってくれる神の存在を願う、人のありようがいいですよね。

非常に生き生きと浅ましくて素敵です。

これでこそ救われるべき人間だし、これでこそキリスト教大乗仏教が生まれてきたんだよね感がございます。

 

物語クライマックスでドン・フワンさんが救済される場面は、ヒロインの活躍含めてまことに美しいので、興味がある方はぜひ読んだり観劇してみたりしてください。

 

 

ストレートに美しい大慈大悲を見ることができる作品ってあんがい少ないので、かえってこの「ドン・フワン・テノーリオ」は新鮮でした。

本願寺とかで上演したらおもしろいだろうなと思います。

 

そのうち当作をお芝居で観る機会に恵まれますように。

スペインでは毎年上演されているそうですが、遠いなあ。