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夜になって雨が降り始めた。
音もなく舞い降りてくるような雨。周囲の喧騒までが雨に吸い取られたようで、織田信長宿所の妙國寺は静寂に包まれていた。
「松永殿は決心を固めたか」
信長から松山新介への問いかけは率直だった。やはり、新介を使者に立てることで、松永久秀の離反をかえって促すことになることも織り込んでいたようである。はじめから信長もそのつもりだったのか、家臣から色々進言された結果の選択肢なのかは分からない。
「ああ。アンタのことは嫌いじゃなさそうだけどな」
「私も嫌いではない」
「たいしたもんだよ。朝倉浅井に本願寺。東国の武田家まで怪しい動きをしてるってえのに、まだ敵が増えても構わねえってんだから」
「時が惜しいのでな。いずれそうなるなら今がよい」
信長の瞳には意志の輝きが宿っていた。最悪の筋書きを自らの手で進めることに躊躇せず、他の誰よりも先んじて対策を立てる。これこそが信長の傑出した勇気であり、織田家躍進の秘訣なのであろう。
「民草は大事に平穏に扱ってくれりゃあ、織田でも三好でもいいんだ」
「なるほど、その方も早い決着が望みか」
「何年も睨み合って境目で小競り合いして、難儀するのは俺たち庶民だからな」
「松山新介重治が庶民とな」
信長がククと含み笑いを見せた。信長もまた成り上がりであり、こうした格や身分を題材にした冗談がツボに入るらしい。
「なぁ大将。この使いっ走りと前の一件と、俺はアンタに貸しがあるよな。ひとつ頼みを聞いちゃくれねえか」
「ほう。言ってみよ」
「アンタが勝った場合。久秀の死に方は、久秀に決めさせてやってくれないか」
「助命かと思えば、死に方ときたか」
「ああ。年寄りは死に際が大事なのさ」
「それは松永殿の願いではなく、その方の願いなのだな」
「そうだ」
新介は勝敗に介入する気はなかった。ただ、旧友が格好悪く死ぬのは嫌だな、と思っただけである。
「覚えておこう。約束まではできぬ。それに、松永殿の命を軽々と扱いたくもない」
「それで充分だ」
信長の返答には誠意が籠もっていた。熟練の新介にとって、それは何よりも嬉しいことであった。
「……私にも、そういう顔を見せてくれるのだな」
「礼をさせてもらおう。その鼓、貸してもらうぜ」
部屋の違い棚には小鼓が飾ってあった。新介が遠慮なく立ち上がって小鼓を手にし、隅に座って構える。
――宙に穴を開けたような音が響いた。
それは、信長の知る小鼓の音色ではなかった。思わず新介の姿を凝視する。彼のひときわ大きな手が鼓を打つたび、空に穴が開いたような、開いた穴に意識が吸われるような思いがした。
新介の指先が一層素早く、艶めかしく動く。音は鼓からでなく、部屋のそこかしこの宙から、更には、信長の身体の内から響いてくるようであった。
「我慢することはない。舞いたければ舞いなよ」
新介が言葉を添える。いつの間にか信長の尻が僅かに浮いていた。
音が続く。”ポ”とも”タ”とも”チ”とも判別できぬ。まるで鼓から発した波が信長の肉体に浸透し、新介の指が直に信長の胸を触っているようであった。宙に開いた穴から死んだ父や吉乃に覗き見られているような気がした。身体から蓮が咲き乱れ、身体すべてが花びらになって吹き散らされていくような気がした。
「さあ、思うがままに」
新介が言葉を継いだ。
言われるまでもなく信長は跳ねるように立ち上がり、帯から抜いた白扇子を構えていた。
鼓の律動が速度を増した。
信長が即興の幸若舞を合わせた。
いつしか世界には信長と新介の二人だけ。いや、舞と音だけで満ち足りているように思えた。
疲れなど感じない。
何も考える事などない。
舞と音は夜明けまで止むことなく続き、信長が己を取り戻した時には新介の姿は消え、雨もやんでいた。
隣室にて。木下藤吉郎秀吉は一部始終を見届けていた。秀吉や鯰江又一郎の名が新介の口から洩れることを懸念しての覗き見だったが、事の成り行きは秀吉の想像を凌駕するものであった。信長が新介を気に入っていること、新介が秀吉にとって読み切れない男であること、はどうやら確からしい。
「堺の新ちゃん、ねえ」
小さな舌打ちをし、信長に気取られる前に秀吉も姿を消した。
秀吉と新介の邂逅はもう少し先のことである。
新介は蜂屋へ戻って女将のお蜜に甘えていた。
「新ちゃん、何かいいことあったんでしょう」
「ああ。美人の膝でやる朝寝は格別よ」
「あら残念。もうお店を開けるからこれで失礼させてもらいますよ」
スッとお蜜が身体の向きを変え、新介の頭が床に強打した。お蜜は構わず階下へ降りていく。
しばらく悶絶してみてから、新介はそのまま眠りについた。
薫り高い朝の陽ざしが銀髪を温めてくれる。今日も堺はいい一日になりそうだ。
終
※続編
短編小説「松山新介重治 一万貫の夢 1/5 松山新介 屋根を往く」 - 肝胆ブログ