陳舜臣さんの小説「耶律楚材」を読んでみましたら、ユーラシア大陸を股にかけたりイスラム出身者等々多様な人々を受け入れたりするモンゴル帝国のスケール感、その中で活躍する耶律楚材さんのお志や契丹人兼中国文化出身者としての味わい等々、読み応えがあってかんたんしました。
耶律楚材さんは
- 契丹人
- 契丹人の国「遼」を滅ぼした女真人の国「金」に仕える
- その後、「金」を滅ぼした「モンゴル帝国」に仕える
- 天文学や政治領域でチンギス・ハンさんやオゴディ・ハンさんから重用されるも、晩年はイスラム系人材に取って代わられる
- モンゴル帝国の破壊から中国の人命や文化を守ったとされる
ということで著名ですね。
この小説は、耶律楚材さんの生涯を幼少期から晩年まで追っていく一代記のスタイルになっていますので、生まれ育ち、金国の崩壊、モンゴル帝国の大発展と、スケールの大きい展開を楽しむことができますよ。
近年では、耶律楚材さんについてはイスラム側の史料に名前が全然登場しないということで、中国側で伝わっているほどには活躍していた訳ではないのではという風に言われているそうですが、モンゴル帝国の中で耶律楚材さんのように活躍していた元金国人は多く、彼らの存在が中国文明の破壊に歯止めをかけた面があるのはまあ間違いないのでしょう。
また、イスラム側の史料で名高いヤラワチさんが、中国側の史料にはあまり登場してこないといった逆転パターンもありますので、そもそもデカい国の東西で活躍していた人をバランスよく史書に残すということ自体が困難な気もします。
著者の陳舜臣さんは次のように耶律楚材さんを評しています。
この作品で利用した資料は、楚材の著作をはじめ、すべて漢文の文献である。モンゴル史は、漢文だけでなく、ペルシャ文献も参照すべきであるが、ふしぎなことに、ジュワイニーやラシードなどのペルシャ文献には、耶律楚材の名はまったく出てこない。なかには、彼はそれほど重要な人物ではなかったと推測する人もいる。だが、彼の詩文を読んでも、たとえば息子の鋳が十五歳になったときに与えた詩に、「忝くも位は人臣を極め」とあるように、彼がモンゴル政権の中枢にいたことはたしかである。
おもうに彼の努力は、儒仏に根づいた文明と人命を、大破壊から守ることに集中されていて、戦争が上手であったのでもなく、税収の成績をあげたのでもない。イスラム史家の立場から見れば、楚材にはしるすに足る業績がなかったことになる。
この本は小説なので、基本的には耶律楚材さんは大変賢くて周りからめっちゃ頼りにされますし耶律楚材さんのおかげで多くの人命や文明が救われたという風に描写されていますが、一方で後半に行けば行くほどイスラム出身者が重用されて耶律楚材さんが中枢から外されていく様子もちゃんと描写されていますので、耶律楚材さんに対するさまざまな論説に対するバランスが取られているように思いました。
その上で、解説の稲畑耕一郎さんが指摘されているように、さまざまな文明を包摂するグローバルなモンゴル帝国の中で出自を超えた活躍をみせる現代性であったり、
あるいはその中で耶律楚材さんが時折見せる漢詩や琴といった中国文明の美々しい描写であったりが、
この小説に多くの彩りを添えてくれているように感じますね。
好きな場面をいくつか。
「大きな力が生まれ、この国がのみこまれてしまうかもしれない」
家のなかなので、耶律履もべつに声をひそめることもなく、そう言ったのである。
「のみこまれる?」
楊氏は聞き返した。
「そう。わしが生まれる前、わしらの遼の国が女真の金にのみこまれたように」
と、耶律履は答えた。
「それで楚材なんですね」
楊氏は赤ん坊の頭を撫でて言った。
耶律楚材さんの名づけのシーン。
小説では耶律楚材さんの父親「耶律履」さんが非常に賢明な人物として描かれており、めちゃくちゃ早い段階で金国の崩壊とモンゴル人の台頭を予見しています。
耶律楚材さんはそれを見越した教育を受けて立派に育ったという設定で。
楚材さんのお名前、四字熟語の「楚材晋用」(自国のすぐれた人材が他国に移ってしまうこと。または、自分とは直接関係ないところにある人材や、物をうまく利用すること)から来ているという設定にはハッとしますね。
ほんまや、耶律楚材さんに相応しい名前やわといまさら思いました。
「おまえは契丹王室の末裔であるそうだ。わしは契丹をほろぼした女真の金をほろぼそうとしている。とすれば、わしはおまえのために、父祖の讐を雪いでやることになるのう。そう思わぬか?」
楚材はチンギス・ハンの声が、垂れた頭のうしろからかぶさってくるようにかんじた。そして心の奥深いところで、それをはね返そうとする強い意欲がわいてきた。
「おそれながら、臣の父祖は、一身をささげて金に事えて参りました。いったん臣となったのに、どうして君に讐をなすことができましょうや」
楚材は首を垂れているだけだったが、そう言い終えたあと、額を絨毯のうえにすりつけた。
「面をあげよ」
と、チンギス・ハンは言った。楚材はゆっくりと顔をあげた。
「りっぱなひげじゃな。これから、おまえのことを、ウルツサハリと呼ぶことにしよう」
チンギス・ハンさんとの初対面。
ウルツサハリ(長いひげ、という意味のモンゴル語)という名前をいただきます。
筋目の通った受け答えをすることでかえってチンギス・ハンさんに気に入られるという場面なのですが、こういう儒教テイストな切った張ったシーンっていいですよね。
「先帝も西征のみぎり、イスラムの長老からイスラムの教えをきいたとき、この教えは、なかなかよいが、一つだけ納得できないことがあるとおっしゃられた」
「ああ、そうでしたね。メッカ巡礼の際、そんな遠くまで出かけることはなかろう、近くの人はよいが、遠くの人にとっては不公平ではないかという理由でしたか。……」
イスラム教に対するチンギス・ハンさんのリアクション描写。
こういう異文明との出会い、率直な感想を悪意無く示すようなシーンも好き。
旅をしているような気分になれますね。
「両雄が戦うのであれば、願わくばヤラワチに残ってほしいものだ」
と、楚材は言った。
「なぜでございましょう?」
「王者の役に立つから」
「ラフマーンはだめなの?」
「彼は金をつくるのが上手なだけだ。ヤラワチは、王者にものを教えることができる」
自分に取って代わって台頭するイスラム系人材を評して。
アレキサンダーやシーザー、マホメット、サラディン等々の話ができるヤラワチさんなら、オゴディさんの役に立つと冷静に語る耶律楚材さん。
政敵のことでありながら、客観的に主君や国や民のためになるかどうかを見定めているあたりに耶律楚材さんの人柄がよく出ていますね。
琴をひきよせ、左指で軽く絃をおさえながら、楚材は弾きはじめ、ゆっくりと吟じはじめた。目はとじたままである。まぶたのうらに、幼い鉉のすがたが浮かび、それが今日、ここを去ったりりしい弟の鋳のすがたと重なり合った。鉉にはもう会うことはできない。
吾が山よ 吾が山
予、将に帰らんとす
予、将に深き渓に帰らんとす
蒼き松は 茅亭を囲み
扃し扃さん 柴の扉
水辺の林の下に 琴と書を楽しまん
水辺の林の下に 琴と書を楽しまん
許さず 市朝に知られ 猿鶴に悲しまるるを
吾が山に 胡ぞ帰らざる
楚材はなんども、くり返して琴を弾き、そして吟じた。
終盤、耶律楚材さんが琴を弾きながら漢詩を吟じるシーン。
中国系の英雄や名臣がオフタイムにふっとこういうことするの、いいですよね。
現代にあって、国という意味ではなかなかモンゴル帝国のような存在は出てきませんが、EUのような政治的結びつきであったり、プラットフォーマーに代表されるグローバル企業であったりはこれからも色々出てくるでしょうから、耶律楚材さんのように異文明のもとで活躍できたり、耶律楚材さんのような異文明の人を使いこなせたりできるような人が増えていくといいですね。
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この本をよんだきっかけは、日本の戦国時代の人物である三好長慶さんが、明国の使節から「倭の耶律楚材」と評されていたという話を耳にしたからでして。
中国の歴史にはいくらでも立派な人がいる中で、なんで「耶律楚材」なんだろう? と思っていたのですけれど。
あらためて耶律楚材さんのことを考えるに、
- 戦乱の中で中国文明を守ったという功績、
- 「楚材」として異文明のもとで活躍したという事績、
は確かに三好長慶さんに通じるのかなあと。
長慶さん、荒れ果てた京に平穏を取り戻して文化や信仰を保護したり、天皇陛下と一緒に明国使節に応対したりするはずのない出自だったりしますもんね。
明から来た鄭舜功さんが、大友宗麟さんとかから「いま都を平和に治めているのは三好長慶とかいうやつなんですわ、いや、私ら守護家からしたらお前誰やねんみたいなどっから生えてきたんかよう分からんような成り上がり者なんですけどなんかエエやっちゃて評判みたいっすよ」みたいな話を聞いて、はーん耶律楚材さん的な存在なんかなとイメージアップしたのかもしれない。
この小説のあとがきで、中島敦さんが「耶律楚材を小説に書きたい」と生前おっしゃっていたらしいというエピソードが紹介されているんですけど、確かに三好長慶さんも中島敦さんの作品の雰囲気がよく似合う人物な気がいたします。