肝胆ブログ

かんたんにかんたんします。

「呪われた部分 全般経済学試論*蕩尽 感想 溜めすぎは良くない、適度に出して世界平和」ジョルジュ・バタイユさん / 訳:酒井健さん(ちくま学芸文庫)

 

バタイユさんの経済? 書「呪われた部分」が、難解ながらも個性ある文章展開に読み惹かれ、なおかつ通常の哲学や経済学や各種オピニオンとはちょっと違った視点を与えてくれる楽しい内容で、かんたんしました。

バタイユさん、「エロい」ということしか知りませんでしたが、読んでみるとめっちゃ面白いですね。他の本も買ってみようと思います。

 

www.chikumashobo.co.jp

 

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バタイユさんは1897~1962年を生きた思想家でして、この本は1949年に刊行されたものとなります。

時代的な古さがある上に難解な文章ではあるのですが、酒井健さんの邦訳・解説がめちゃくちゃ良質で、思ったよりは取っつきやすくて助かりました。

 

 

本の概要と目次は次の通りです。

「“全般経済学”とは、生産よりも富の“消費”(つまり“蕩尽”)のほうを、重要な対象とする経済学のことである。」経済合理性の範疇に収まらない蕩尽・祝祭・宗教・エロス・芸術は、人間の喜びの本質が有用性の原理に拠って立つ生産・蓄積過程にあるのではなく、消費・蕩尽にあることを示す。本書は人間が不可避的に内包せざるを得なかった「過剰」を考察の対象にして人間存在の根源に迫り、生を真に充実させるために、蕩尽・神聖・恍惚に代表されるこの「呪われた部分」の再考を鋭く強く促す。意識の「コペルニクス的転回」に賭けたバタイユ作品の新訳。巻末に先駆的重要論文「消費の概念」を収録。

 

第1部 理論の導入
第2部 歴史のデータ1 蕩尽の社会
第3部 歴史のデータ2 軍事企画社会と宗教企画社会
第4部 歴史のデータ3 産業社会
第5部 現代のデータ
補遺 消費の概念

 

 

第1部が主論部(主に言いたいこと)になっていまして、その時点でけっこう難しいので、第2部以降に入る前に補遺「消費の概念」を先に読んだ方がかえって分かりやすいかもしれないです。

 

 

バタイユさんの主な主張としては、

  • 人間は合理性や有用性のために生きているのではない。むしろ、本来はエロいことや宗教やアートやエロいこと等、気持ちよくなるため(至高性のため)に生きているのである。

  • 合理性や有用性だけを考えて富や資本の蓄積、成長に向けた投資ばかりをし続けると、人間社会にエネルギーが溜まりすぎてしまって、戦争のようなエネルギーの「消費(蕩尽)」が生じてしまう。

  • 普通の経済学は個人や企業や国家等の「個別の部分」しか捉えられていないが、もっと人間全体での「全般的」な視点を捉えた議論をするべきだ。

  • 歴史を紐解けば、アステカの供犠、インディアンのポトラッチ(贈与文化)、カトリックの大聖堂建設等々、人間は上手くエネルギーを消費(蕩尽)することができていた。
    しかし、規律的で真面目なイスラム教やプロテスタント、資本主義や社会主義が普及してからは、エネルギーを蓄積して戦争や投資をすることばかりに目が向けられるようになってしまった。

  • (1949年当時)このままだとアメリカとソ連で第3次世界大戦が勃発しかねない。みんなもっと消費(蕩尽)に目を向けようぜ。そろそろ「消費(蕩尽)はよくない」という呪いを解くことにしようぜ!
    その点、アメリカの「マーシャル・プラン」はいいね。このプランも今後どうなっていくのか分からないけど、アメリカ一国の国益なんて考えないで、「全般的」な視点に立って見返りを求めずひたすらマネーをつぎ込み続けると人類にとっていいと思うよ。

 

という感じでしょうか。(私の素人意訳です)

「消費」というワードは、現代だと「浪費」でもいいかもしれません。

 

直言はしていないんですけど、バタイユさんが第3次世界大戦の可能性を憂いている点、世界平和を祈っている点が文脈から伝わってくるのが好感度高いんですよ。

 

 

なお、この本の内容を突き詰めると「溜めすぎは良くない」「溜めるために生きてるんじゃないだろ?」「四の五の言わずにセックスとマスターベーションに励もうぜ!」と言われているような気持ちにもなります。

実は経済とか社会思想とかの皮をかぶった猥談なんじゃないか。(私の素人意訳です)

 

 

 

素朴な感想としましては、なかなか日ごろ意識しない視線から人類社会を論じてくれているので「シンプルに面白い」ですし、

  • 人間は必ずしもゲーム理論的に動く訳ではない。
    行動経済学だとか消費者心理だとかナラティブだとかに目を向けるべきだ。

  • 各企業が生き残りのために資本を蓄積し、コストや人件費を抑制することは正しい。しかし、社会全体で見れば、コストや人件費が減らされたことで消費や投資が弱体化し、結果として景気全体を押し下げてしまう「合成の無謬」が生じてしまう。

  • イケてるビジネスパーソンとして、単純な合理性の追求はいずれAIの仕事なのだから、もっとアートだとか社会貢献だとかのアンテナを磨こうぜ。

 

等々の最近のオピニオン、あるいは富をため込んでいるお金持ちへの単純な反発心、にも通じる気がします。

 

 

万人ウケするような本ではないと思いますが、人間という生きものに興味がある方、ちょっと視点を変えたオピニオンに触れてみたい方、レベルの高いエロスを追及している方などにはいいんじゃないかなあ。

なお、ガチ経済学の人が論争するつもりでこの本を読むことはおすすめしません笑。

 

 

 

わたしの素人感想はこの辺にして、本文(補遺含む)の中から印象に残った文章を少し引用しておきます。

高尚とか有用性とかの視点ではなく、フレーズの面白さで選んでいます。

いやあバタイユさんの文章面白いわ。

 

時間のなかの性行為は空間のなかの虎と同じになる

 

明日への配慮が取り除かれるとすぐに、この無益な蕩尽が、私を快適にするものになる

 

生産活動、仕事場あるいはパンにまさって、無為、ピラミッド、アルコールは、資源を使用しながら、その資源を見返りなしに――利益なしに――蕩尽するという利点を持っている。それら無為、ピラミッド、アルコールは単純に我々に快意を与える。それらは必要性なき選択に応えており、じっさい我々はそれらを必要のないまま選んでいるのだ。

 

一人の人間にとって大切なのは一個の物であるだけでなく、至高に存在することでもある

 

いったい誰が、芸術作品や詩を消滅させるなどと語るだろうか。

 

無意識において宝石は、排泄物と同様に、傷口から流れでる呪われた物質なのである。

 

精神分析が描きだすような無意識の形態において贈与は、排泄行為を象徴している。そして排泄行為は、肛門性愛とサディズムの根本的結合に応じて死に関係している

 

 

 

あと、訳者の酒井健さんが、日本の中世文化が好きそうで好き。

以下は訳者あとがきより。

我々もまた古都を訪れて中世の神社や仏閣、庭園や木造を眺めては、しみじみとした思いに浸る。これも余剰が巧みに蕩尽されて、宗派の教義など超えた生の雰囲気が、奥深い境内から、高木の木立から、大胆な襖絵から、静謐な池の水面から、今なお醸し出されているからなのだろう。現代とはまったく違う価値観、まったく異なる経済感覚が時代を支配していたのだ。しかしそれでも現代の我々は大切な何かを感受できる。内奥において中世の人々とどこかで交わることができる。

 

室町時代の庭園をそぞろ歩きながら新緑の樹葉の豊饒で透明な気配におそわれたときに、あるいはまた、愛する相手の熱い呼気を肌に浴び、高まる心の動きをじかに感じたときに、それが自分の内部の生の在りようだと意識してほしい。バタイユはそう願っている。

 

めっちゃ名文だと思います。

いちど公開ゼミでも聴いてみたいものですね。

 

 

 

年末年始、時には合理性や有用性から離れて物思いに耽ってみるのもいいですね。

 

個人も企業も政府も外交関係も、皆さま溜めすぎることなく適度にエクスタシーな内奥に至ることができますように。