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小説「不如帰 感想 下編が好き」徳富蘆花さん(青空文庫)

 

青空文庫徳富蘆花さんの「不如帰(ふじょき、あるいはほととぎす)」を初めて読んだところ、個人的にとても好きなタイプの夫婦の悲恋ものでかんたんしまして、明治期・日清戦争前後独特の社会情勢描写と相まって感じ入りました。

 

好きあっている夫婦がずっと一緒にいれないお話、私大好き。

とりわけ戦国時代とか幕末・明治時代とか太平洋戦争前後とかジルオールとか、世の中の動乱が激しすぎて個人個人の幸せや感情が抗うこともできずに流されていってしまうやつ、切なすぎていいですよね……。

 

www.aozora.gr.jp

 

 

以下、小説のネタバレを含みますのでご留意ください。

 

 

 

 

 

詳細は伏せますが、明治期に実際あったお話をモデルにした小説となります。

 

当時の社会では上流に属する家のお話。

仲良し夫婦。夫は海軍将校、妻は令嬢。

妻は身体が弱く、結核を発症。

姑による意地悪や息子偏愛、夫の友人による嫉妬と策略で、二人は離縁することに。

そのまま夫は遠征、妻は息を引き取る。

二人の心はずっと繋がっていたのに……という。

 

ちなみにモデルになった実在の海軍将校の方は、お家の事情もあり再婚はするのですが、その後もずっと亡くなった前妻の写真をポケットに入れていたという話が伝わっています。

 

ほぼ実話な内容を、第三者が小説として新聞で発表して、それが当時メガヒットして百版を超える……というのも、現代の小説というよりは江戸時代の浄瑠璃的な売れ方感があってなんかすごいですね。

 

 

小説は三部構成で、

上は主人公夫婦の紹介的なパート、

中は主人公夫婦が、夫婦の知らぬ間に離縁させられてしまうパート、

下は主人公元夫婦それぞれのその後を描くパート。

 

 

以下、主人公二人の好きなセリフを。

 

武男(主人公 夫)

「母さんはわたしのからだばッかりおっしゃるが、そんな不人情な不義理な事して長生きしたッてどうしますか。人情にそむいて、義理を欠いて、決して家のためにいい事はありません。決して川島家の名誉でも光栄でもないです。どうでも離別はできません、断じてできないです」

 

結核がうつってはいけないからと、妻との離縁を勧める母に対して。

家社会の重みを理解しながらも、人情・義理を欠いては意味がないと言うところに人柄がよく出ていますね。

 

 

 

「母さん、あなたは、浪を殺し、またそのうえにこの武男をお殺しなすッた。もうお目にかかりません」

 

自分の出陣中に、勝手に妻を離縁されて母に詰め寄る武男さん。

離縁のショックで妻は死ぬだろう、それは自分のことを殺したのと同じことだと。

 

なお、もう「お目にかかりません」と言いつつ、その後も母の顔を見る機会はどうしても何度も発生するのが当時の家社会なのであります。

 

 

 

消息絶えて、月は三たび移りぬ。彼女なお生きてありや、なしや。生きてあらん。わが忘るる日なきがごとく、彼も思わざるの日はなからん。共に生き共に死なんと誓いしならずや。
 武男はかく思いぬ。さらに最後に相見し時を思いぬ。五日の月松にかかりて、朧々としたる逗子の夕べ、われを送りて門に立ち出で、「早く帰ってちょうだい」と呼びし人はいずこぞ。思い入りてながむれば、白き肩掛をまとえる姿の、今しも月光のうちより歩み出いで来たらん心地すなり。
 明日にもあれ、首尾よく敵の艦隊に会して、この身砲弾の的にもならば、すべて世は一場の夢と過ぎなん、と武男は思いぬ。さらにその母を思いぬ。亡き父を思いぬ。幾年前江田島にありける時を思いぬ。しこうして心は再び病める人の上に返りて

 

分隊長、無念です。あ……あれをごらんなさい。畜生ッ!」
 分隊長は血眼になりて甲板を踏み鳴らし
「うてッ! 甲板をうて、甲板を! なあに! うてッ!」
「うてッ!」武男も声ふり絞りぬ。
 歯をくいしばりたる砲員は憤然として勢い猛く連べ放ちに打ち出だしぬ。
「も一つ!」
 武男が叫びし声と同時に、霹靂満艦を震動して、砲台内に噴火山の破裂するよと思うその時おそく、雨のごとく飛び散る物にうたれて、武男はどうと倒れぬ。
 敵艦の発ち出だしたる三十サンチの大榴弾二個、あたかも砲台のまん中を貫いて破裂せしなり。
「残念ッ!」
 叫びつつはね起きたる武男は、また尻居にどうと倒れぬ。

 

夜は甲板で妻を思い、昼は艦隊戦にて咆哮す。

時代のうねりは、夫婦の幸不幸を飲み込んで進んでまいります。

 

 

 

浪子(主人公 妻)

誠におはずかしき事に候えどもどうやらいたし候節はさびしさ悲しさのやる瀬なく早く早く早く御目にかかりたく翼あらばおそばに飛んでも行きたく存じ参らせ候事も有之夜ごと日ごとにお写真とお艦の写真を取り出いでてはながめ入り参らせ候

万国地理など学校にては何げなく看過ごしにいたし候ものの近ごろは忘れし地図など今さらにとりいでて今日はお艦のこのあたりをや過ぎさせたまわん明日は明後日はと鉛筆にて地図の上をたどり居参らせ候 

ああ男に生まれしならば水兵ともなりて始終おそば離れずおつき申さんをなどあらぬ事まで心に浮かびわれとわが身をしかり候ても日々物思いに沈み参らせ候

これまで何心なく目もとめ申さざりし新聞の天気予報など今在いますあたりはこのほかと知りながら風など警戒のいで候節は実に実に気にかかり参らせ候

何とぞ何とぞお尊体を御大切に……(下文略)

          浪より

  恋しき
    武男様

 

離縁前から、夫の単身赴任で寂しい浪子さん。

夫が海軍将校ですから、地図帳を見たり天気予報を見たりして気にかけているところがとてもリアルですね。

 

 

 思うほど、気はますます乱れて、浪子は身を容るる余裕もなきまで世のせまきを覚ゆるなり。身は何不足なき家に生まれながら、なつかしき母には八歳の年に別れ、肩をすぼめて継母の下に十年を送り、ようやく良縁定まりて父の安堵われもうれしと思う間もなく、姑の気には入らずとも良人のためには水火もいとわざる身の、思いがけなき大疾を得て、その病も少しは痊たらんとするを喜べるほどもなく、死ねといわるるはなお慈悲の宣告を受け、愛し愛さるる良人はありながら容赦もなく間を裂かれて、夫と呼び妻と呼ばるることもならぬ身となり果てつ。もしそれほど不運なるべき身ならば、なにゆえ世には生まれ来しぞ。何ゆえ母上とともに、われも死なざりしぞ。何ゆえに良人のもとには嫁しつるぞ。何ゆえにこの病を発せしその時、良人の手に抱かれては死せざりしぞ。何ゆえに、せめてかの恐ろしき宣告を聞けるその時、その場に倒れては死なざりしぞ。身には不治の病をいだきて、心は添われぬ人を恋う。何のためにか世に永らうべき。よしこの病癒ゆとも、添われずば思いに死なん――死なん。
 死なん。何の楽しみありて世に永らうべき。
 はふり落つる涙をぬぐいもあえず、浪子は海の面を打ちながめぬ。

 

 雨と散るしぶきを避けんともせず、浪子は一心に水の面をながめ入りぬ。かの水の下には死あり。死はあるいは自由なるべし。この病をいだいて世に苦しまんより、魂魄となりて良人に添うはまさらずや。良人は今黄海にあり。よしはるかなりとも、この水も黄海に通えるなり。さらば身はこの海の泡と消えて、魂は良人のそばに行かん。
 武男が書をばしっかとふところに収め、風に乱るる鬢かき上げて、浪子は立ち上がりぬ。

 

離縁後。

養生先の厨子にて、自死の思いがちらつく浪子さん。

生涯の決心がすべて水泡となって消えていったやるせなさがただただつらい。

 

水面を見て「良人は今黄海にあり。よしはるかなりとも、この水も黄海に通えるなり。」という考えが出てくるところが哀しくてなりません。

 

 

山科に着きて、東行の列車に乗りぬ。上等室は他に人もなく、浪子は開ける窓のそばに、父はかなたに坐して新聞を広げつ。
 おりから煙を噴き地をとどろかして、神戸行きの列車は東より来たり、まさに出でんとするこなたの列車と相ならびたり。客車の戸を開閉する音、プラットフォームの砂利踏みにじりて駅夫の「山科、山科」と叫び過ぐる声かなたに聞こゆるとともに、汽笛鳴りてこなたの列車はおもむろに動き初めぬ。開ける窓の下に坐して、浪子はそぞろに移り行くあなたの列車をながめつ。あたかもかの中等室の前に来し時、窓に頬杖つきたる洋装の男と顔見合わしたり。
「まッあなた!」
「おッ浪さん!」
 こは武男なりき。
 車は過ぎんとす。狂せるごとく、浪子は窓の外にのび上がりて、手に持てるすみれ色のハンケチを投げつけつ。

 

山科駅での一瞬の邂逅。

これが元夫婦最後の対面になるという。

この交錯を幸いと思うべきなのか、辛いと思うべきなのか。

 

山科駅に行くたびにこのシーンを思い出してしまいそうで重い。

 

 

 

「ああつらい! つらい! もう――もう婦人(おんな)なんぞに――生まれはしませんよ。――あああ!」
 眉をあつめ胸をおさえて、浪子は身をもだえつ。急に医を呼びつつ赤酒を含ませんとする加藤夫人の手にすがりて半ば起き上がり、生命を縮むるせきとともに、肺を絞って一盞の紅血を吐きつ。こんこんとして臥床の上に倒れぬ。

 

不如帰を象徴するセリフ、浪子さんの「もう女なんぞに生まれはしませんよ」。

 

現代の女性は、少しは良い時代に生きているのでしょうか。

 

 

 

 こは浪子の絶筆なり。今日加藤子爵夫人の手より受け取りて読みし時の心はいかなりしぞ。武男は書をひらきぬ。仮名書きの美しかりし手跡は痕もなく、その人の筆かと疑うまで字はふるい墨はにじみて、涙のあと斑々として残れるを見ずや。

 もはや最後も遠からず覚え候まま一筆残しあげ参らせ候 今生にては御目もじの節もなきことと存じおり候ところ天の御憐れみにて先日は不慮の御目もじ申しあげうれしくうれしくしかし汽車の内のこととて何も心に任せ申さず誠に誠に御残り多く存じ上げ参らせ候

 車の窓に身をもだえて、すみれ色のハンケチを投げしその時の光景は、歴々と眼前に浮かびつ。武男は目を上げぬ。前にはただ墓標あり。

 ままならぬ世に候えば、何も不運と存じたれも恨み申さずこのままに身は土と朽ち果て候うとも魂は永く御側に付き添い――

 

もっかい読んでたらもっかい泣けてきた。

 

 

 

 

人の不幸と死が主題の小説ですので、上・中・下と話が進んでいくほどセリフや行動、感情があふれてくるので、結果として先に進むほど面白いですね。

 

不如帰、脇の登場人物たちもそれぞれ人間的で、浪子さんの父親が大変好人物ですので彼の存在が救いです。

 

興味を持った方は読んでみてくださいまし。

 

 

世の恋人や夫婦が老後までながく一緒にいれますように。