肝胆ブログ

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「ぜいたく列伝 感想」戸板康二さん(文春文庫)

往年の富豪・文化人・政治家等の個性際立つ贅沢エピソードを記したエッセイ本がなかなか読み応えがあってかんたんいたしました。

 

books.bunshun.jp

 

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著者は戸板康二さん。

「ちょっといい話」で知られる、歌舞伎評論、小説、エッセイ等様々な文章で才を発揮した方ですね。

 

 

当著で収められているエピソードは次のとおりです。

関心のある人物が含まれているようでしたら、一読してみる価値があると思いますよ。

 

 

 

錚々たるメンバーですね。

著者が歌舞伎・舞台評論で有名な方なので、そちら方面の人物が多い印象です。

 

 

歌舞伎役者の中では、五代目中村歌右衛門さんのお話が印象的でした。

役者らしいぜいたくなエピソードもいろいろ書かれているのですが、それ以上に当り役「淀君」の話や、堂々たる威厳についての話題が興味深い。

浅井長政お市の方の間に生まれた長女のお茶々が、成人して秀吉の側室となり、秀頼を産み、大坂落城の時わが子とともに火の中で生涯を終えるという美女の人間像を、歌右衛門は完成した。三百年の歌舞伎の歴史の上で、はじめて創造された役柄といってもいいのだ。

この役者が堂々としていたことについて、おもしろい話がある。大正のおわりに、歌舞伎座家康を演じ、扮装をととのえて舞台にゆく直前、楽屋で正座している時、ある新聞の記者が、のれんをかき分けてはいって行ったが、その威厳に打たれて、平伏したというのである。当時このゴシップを書いた雑誌の記事には、「ちなみにその記者は、幕臣の子だった」とある。少々おもしろすぎるが、歌右衛門はそれほど立派な役者だったのは、誰でも認めたことである。 

 

 

戦国・江戸つながりで、徳川義親さんのお話も面白いです。

(徳川義親さんは尾張徳川家19代当主に当たる方です)

歴史が好きなので、史学科で坪井久馬の史学研究法を熱心に聴講、卒業論文に、木曽山の村落、労働者の組織、そして、伐木運材の方法等を体系化して提出した。なぜこういう主題をえらんだかといえば、それが尾張藩の領地だったからだ。この辺、平民とは、そもそも動機が違う。

清正の三幅対の遺品はそのまま、和歌山に保存されていた。

昭和の初めに紀州徳川家が売り立てをした時、義親はどうしてもこの三つがほしかった。それで清正とは切っても切れない肥後熊本の細川護立、賤ヶ嶽の合戦で因縁浅からぬ金沢の前田利為の両候と猛烈にせり合って、烏帽子だけでもそのころの一万七千円、ほかに虎の頭も槍も手に入れたのであった。

「私は女道楽はしない。道楽というなら、研究所道楽でしょう。屋敷の中に生物学研究所、林政史研究所がある。やがて東洋研究所を作ろうとも考えています」と、八十歳の時、週刊誌で徳川義親は語ったあと、「こういう研究所が、いわば私の、俗にいう二号さん、三号さんですかな」と笑っていた。

 

今日的には女性関係のぜいたくエピソードはあまり支持を得にくいところがございますけれども、こうした文化系や研究所系へ財を投じてくださるお大尽エピソードは素直にハハァありがたき幸せと頭が下がりますね。

 

 

と言いつつ、私がいちばん感動したのは恋多き作詞家西條八十さんのお話でした。

多くの女性を愛しはしても、四十三年の伴侶である妻晴子に対する愛情は、限りなく深く、その死を悼んで「我妻にしてまた我母 また 我恩人なりしひと ここに眠る。黒髪よ 美しき眼よ その海のごとく大いなるこころよ。ああ わが亡きあと 誰びとか かくも切に この稀なる女人を想ひ出でんや」という詩碑を松戸の霊園に建てようとしていたが、途中で考え直して、「われらふたり 楽しくここに眠る。はなればなれに生まれ めぐりあひ 短き時を愛に生きしふたり 悲しく別れたれど また ここに こころとなりて とこしへに 寄り添ひ眠る」という銘墓を立て、自分と二人のための詩碑にしたのであった。

 

名文!!

こんな美しい詩を詠われたら浮気も許してしまいそう。。。(ちょろイン)

 

 

 

と、他にも取り上げたらキリないほど、各人のキャラが立ちまくりなエピソードが盛りだくさんであります。

お金持ちは、庶民の共感を得られるようなぜいたくぶりを望まれてしまうのもまた有名税の一種なんでしょうかね。

 

 

この本で取り上げられているようなぜいたくはとうていできませんが、食べたいものを食べられる、行きたいところに行ける、読みたい本を読める、程度のぜいたくができる暮らしは得ることができますように。

できれば、休みたいときに休める、も。。。