郷土史家による丹波篠山城の紹介冊子が、城の成り立ちだけでなく青山氏の人物紹介や幕末の動きなんかも書いてあり、短いながらも読み応えがあってかんたんしました。
ネット上に情報がほとんどなく、流通経路が不明の本です。
平成20年第一刷、平成22年第二刷と書いていますので、たぶん現地に行けば手に入ると思われます……。
(私は古本屋さんで手に入れました)
おおまかな内容としましては、
といったところで、全100ページ足らず。
コンパクトに篠山藩の歴史を学べますので、こうした郷土史紹介冊子のお手本のような逸品ではないかと思われます。
篠山城は兵庫県篠山市にございまして、信長の野望等では波多野氏で有名な八上城の近所に位置します。
慶長14年(1609年)に天下普請として、松平康重さんを城主に、普請総奉行を池田輝政さん、縄張奉行を藤堂高虎さんに、西国16カ国21名の大名を助役にさせて築城。
この辺りは京都から山陰・山陽道に通じる要衝ですし、大坂城の監視も兼ねていた模様であります。
この本ではひとつの空想として、篠山城は立派な縄張ながら天守閣がなく、一方で華麗な大書院があることから、実は大坂方との交渉が上手くいき、豊臣秀頼さんと淀君さんが大坂城を明け渡した場合の、淀君の隠居所として考えていたのかもねみたいなことも書いてあったりして楽しいですよ。
篠山藩は青山氏の統治時代が長かったためか、この本でも青山氏についてはしっかり目に紹介いただけます。
例えば青山氏の家紋「無字銭」の由来についても、
- 後醍醐天皇から銀銭を賜った説
- 青山忠成さんの留守中、奥方が麦をついたら滑銭が出てきた説
- 青山忠成さんが出陣する際、具足櫃の上に銭が乗っていて、お守りに持っていったら大きな戦功を上げることができた説
- 庭の竹の子が銭を先端に乗せたまま生え出してきて縁起が良い説
- 青山忠俊さんが十一面観世音菩薩を信仰していたら庭の竹の子が(中略)説
と様々な説を紹介いただけます。
ちなみに青山忠成さんとは、201Xの無骨者集め@三河の副産物のあの人ですよ。
この方は江戸入府の際に徳川家康さんから「目の届く限りの地」を太っ腹に賜ったのですが、その賜った土地が現代のセレブシティ青山であることで知られていますね。
家康さんの放鷹時の不手際で失脚したそうですが、功績の多い譜代大名なので、すぐに許されて加増を重ねたそうです。
青山忠俊さんは青山忠成さんの次男で、兄が早世したので嫡子となった方です。
小田原征伐、関ケ原の戦い、大阪夏の陣と戦歴を重ねた強者ですよ。
徳川家光さんを厳しく諫めたことで知られており、大肌脱ぎとなって家光さんに詰め寄って「言うこと聞かんなら儂のタマ取ってみいや(意訳)」とすごんだり、家光さんがファッショナブルな恰好(伊達政宗さんの影響だろうか)で外出しているのを見つけると走り寄って抱き留めて飾り立てた頭の紙を引きちぎったり、家光さんが鏡に自分の姿を映しているのを見て「それでも男ですか、軟弱者!(意訳)」と鏡を取り上げ庭へ投げ捨てたりされてたそうで。
(名将言行録等が出典のため、真偽不明)
家光さんには嫌われてしまって減封を喰らったそうですが、やがて赦免。
ただ、本人は意地があるのか幕閣への出仕は二度としなかったそうな。
その後も青山氏は順調に繁栄し、青山忠朝さんの頃に笹山藩主になったそうです。
篠山城には青山氏を祀る青山神社もありますね。
篠山城に戻って、他の話を。
この本では、篠山城は「桐ヶ城」とも呼ばれるが、これは一般に「桐の木が多いから」と言われているけれど、この辺りは桐があまり育たないので、「霧ヶ城の転訛だろう」と郷土史家らしい説を述べられているのが印象的でした。
確かに丹波と言えば霧なので、説得力があるように思えます。
また、著者の祖父(1853年生まれ)に子どもの頃聞いた話によれば、幕末の頃は篠山城でゲベール銃や大筒の実射訓練をしていたそうで、破壊力はともかく射程の長さや発射音の大きさにはとても驚いたというエピソードが紹介されているのも興味深いです。
当時を知る人への聞き取り調査っていいですよね。
取り上げればキリがありませんが、こうした様々な説明やエピソードに触れることのできるよい郷土史本だと思います。
見かけたら手にされてみてはいかがでしょうか。
各地の素敵な郷土史家さんが引続き元気に活動なさって、研究成果を書籍等の形に残してくださいますように。