肝胆ブログ

かんたんにかんたんします。

小説「零式戦闘機 感想 牛…馬…今も昔も物流を舐めるなでしょうか分かっちゃいるけどどうにもできないなのでしょうか」吉村昭さん(新潮文庫)

 

吉村昭さんの「零式戦闘機」を読みましたら、零式戦闘機開発に尽力した開発者たちの熱い苦闘、零式戦闘機を駆って中国や米国と戦った兵士たちの技量・勇気っぷりと、一方で飛行機の輸送は牛や馬に頼っていて遅々として完成機を飛行場に送れないという身の丈すぎる実態との比較描写が鮮やかすぎてかんたんしました。

 

ゼロ戦の格好よさや偉大さを説いた人はたぶんたっくさんいると思うんですけど、牛や馬を通じて生産・物流全体の脆弱さを対比させた吉村昭さんの構成力の冴えは称賛してもし足りることはないんじゃないでしょうか。

 

www.shinchosha.co.jp

 

 

昭和十五年=紀元二六〇〇年を記念し、その末尾の「0」をとって、零式艦上戦闘機命名され、ゼロ戦とも通称される精鋭機が誕生した。だが、当時の航空機の概念を越えた画期的な戦闘機も、太平洋戦争の盛衰と軌を一にするように、外国機に対して性能の限界をみせてゆき……。機体開発から戦場での悲運までを、設計者、技師、操縦者の奮闘と哀歓とともに綴った記録文学の大巨編。

 

 

 

というわけで、当作品はゼロ戦の優秀さ格好よさ、ゼロ戦にかかわった人たちの辛さ格好よさをふんだんに目撃できつつ、当時の日本社会が大戦を続けるには工業・物流基盤がぜい弱すぎたことをめちゃくちゃ思い知らされる、非常に優れた戦記小説であります。

 

牛・馬と書いても初見の方からすれば??だと思いますが。

お話のオープニングから

完成された機は、大西組をはじめ村瀬、東山、柘、加藤の各荷役の組の手で、胴体、翼に分離されて例外なく四十八キロへだたった岐阜県各務原飛行場に牛車ではこばれるのが常だった。

牛車以外の運搬方法は、むろん試みられた。トラックでは約二時間、馬車では十二時間でそれぞれ運搬はできたが、名古屋市内をはずれると道は極端に悪くなる。その凹凸の多い悪路をトラックで走らせると、そのはげしい振動で積まれていた機体は、すっかり傷ついてしまう。

 

なんですよ。

 

 

このOh……で物語を始めておいて、ゼロ戦にかかわる努力や苦難や活躍や悲壮な特攻を美々しく描写していく吉村昭さんの残酷な構成力よ。

人間の英知でいっときの優位は取れても、国家としての地力が違い過ぎる。

そんな第二次大戦のよく語られる構造を、牛を通して強烈な実感に落とし込んでくれる筆致、さすがとしか言いようがありません。

 

 

対比的に、ゼロ戦一号機が完成した際の

機は、滑走路をはなれると、まず右脚、そうしてそれを追うように左脚が両側から抱き合うように機体の下部に吸い込まれた。脚は姿を消し、機体は恍惚とさせるような流線形を示した。

かれは、美しい、と思った。脚を引込めた折の形はむろんよくわかってはいたが、陽光の下を流れるように空を行くまばゆい機の姿は、かれに新たな感慨をあたえたのだ。

 

ですとか、

 

中国での初陣・大勝利時の

進藤は、胸の熱くなるのをおぼえた。自分の眼前でくりひろげられた空戦は、この零式戦闘機の性能が、予想をはるかに越えたすばらしいものであることをしめしている。そして、その新戦闘機の性能を十二分に発揮したのは、部下たちのパイロットとしての素質であり、猛訓練に堪えた努力の結果であると思った。

 

ですとか、

 

人間の営み・努力の美しさがより引き立つのです。

 

 

戦争後半、さすがに牛は……ということで、安定輸送に適した種の馬が導入されます。

が、それこそ「それで馬かよ!」と現代人が唸ること間違いなしの残酷な事実描写でありまして、また、その馬たちも飼い葉不足で瘦せ衰えていく史実。

 

兵の技量や士気、武器や戦闘機の性能といった分かりやすいものたちが注目され資源を注がれるも、後方生産や物流の整備はあとまわし。

 

こうした現実は現代もそう変わりはなく、人の経営判断の偏りを思い知らされますね。

あるいは、そうした偏りを分かる人は分かっていたのでしょうけれど、それでも改善を進められない、資源の絶対量不足は今も昔も変わらないという面に同情と遺憾を寄せるべきでしょうか。

ただただ惜しいですよね。

 

 

牛で始まり馬で終わった零式戦闘機の物語。

戦史の一側面という点でも、変わらぬ人間社会のありようという点でも実に優れた小説だと思います。有名作品ですが未読の方は手に取ってみてはいかがでしょう。

 

 

今も昔も、人々の無念が確かな目を持つ誰かに見いだされ、後世に受け継がれ、やがては改善・克服に繋がっていきますように。