西田幾多郎さんの「善の研究」を読んでみましたら、めちゃくちゃ難しくて笑いましたが書いてある内容は善意が溢れていてかんたんしました。
真の実在とは何か,善とは何か,宗教とは,神とは何か――.主観と客観が分かたれる前の「純粋経験」を手がかりに,人間存在に関する根本的な問いを考え抜いた西田幾多郎(1870-1945).東洋の伝統を踏まえ,西洋的思考の枠組自体をも考察対象とした本書は,以後百余年,日本の哲学の座標軸であり続ける.改版(注解・解説=藤田正勝)
西田幾多郎さんは有名な哲学者ですが、関西人的には哲学の道とか京都学派という響き(詳しくは知りません)だとか「人は人 吾は吾なり とにかくに 吾が行く道を 吾は行くなり」とかで知られている方ですね。
若い頃に著作を読んだことがあって、その時も「難しいこと考える人やなあ」という印象を抱きまして、年とってから読んだら何か印象変わるやろかと思ってあらためて当著を読んでみたところやっぱり難しかったです。
この本は全部で四編構成になっていまして、
第一編 純粋経験
第二編 実在
第三編 善
第四編 宗教
という流れなのですが、先へ進むほど日本語が分かりやすくなっていくので、実は第四編から逆に読み進めた方が分かりやすくておすすめという著者公認の攻略法が知られているという点でも有名な本であります。
昔の難しい本はさいきんのゲームみたいに攻略法という概念があるのが素敵ですね。
ある程度年をとっていて、西田幾多郎さんや鈴木大拙さんの文章を読んだことがある方であれば、第一編から読んでいってもなんとなく理解はできると思います。あくまでなんとなく。
本の内容としましては、古今東西("東"が入っているところに西田幾多郎さんの哲学史における画期があるのでしょう)の哲学者や宗教者のお考えを適宜引用しつつ、西田幾多郎さん独自のお考えとして
- 「自分」「他者」という意識や区分が表れる前の段階に、「純粋経験」という共有データベース的なものがある
- 純粋経験は「自分」と「世界や宇宙」が一体となっている
- 「実在」というものを突き詰めて考えれば、自分という意識の実在と世界や宇宙の実在はイコールである
- 「善」とは、そういう純粋経験に立ち返って、自分の知識や意志を、世界や宇宙と一体化させることである(主客合一)
- そうなれば、自分を愛することと他者を愛することはイコールになる
- 要するに「愛」とは実在の本体を捕捉する力であり、知の極点である
- 「宗教」は、自己愛と他者愛の合一、主観と客観の合一、人と神の合一を図ろうとする生命そのものの要求なんよ
的なことを解いてくださっている気がします。
(素人理解です)
明治時代にこの本が出たときは、日本初の本格的な哲学書(とされる)で、しかも西洋の著名な哲学者の説に対して「ほんまか」「せやろか」と直球の反論・批判をしまくっていて、しかも西洋にはない東洋哲学・宗教のエッセンスを踏まえた意見を述べているので、それらが痛快だと喜ばれた部分もあったのかもしれません。
とはいえ、個人的な印象としましては、この本の主題はタイトル通り「善」を論じて奨励するもの、個々人の「実在」に世界と通じる意義を与えるもの、「宗教」や「信仰」に現代的な意義をもたらすもの、ではないかなあと思います。
伝統的な道徳・宗教の教えをリブートした感があるといいますか。
文章がやったら難しいだけで、内容としましては善意に溢れている気がしますので、めっちゃ難しいけれどもトライしてみる値打ちがふんだんにある本だと言えましょう。
私自身、自分と世間様が一体であるように感じた経験なんてほとんどありませんが、徳を積み重ねていずれはそういう域の立派な人格に至ることができますように。
備忘を兼ねて、幾つか気に入った文章を引用しておきます。
純粋経験説の立場より見れば、こは実に主客合一、知意融合の状態である。物我相忘じ、物が我を動かすのでもなく、我が物を動かすのでもない、ただ一の世界、一の光景あるのみである。
純主観的では何事も成すことはできない。意志はただ客観的自然に従うに由ってのみ実現し得るのである。水を動かすのは水の性に従うのである、人を支配するのは人の性に従うのである、自分を支配するのは自分の性に従うのである、我々の意志が客観的となるだけそれだけ有力となるのである。釈迦、基督が千歳の後にも万人を動かす力を有するのは、実に彼らの精神が能く客観的であった故である。我なき者即ち自己を滅せる者は最も偉大なる者である。
人は個人主義と共同主義と相反対する様にいうが、余はこの両者は一致するものであると考える。一社会の中に居る個人が各充分に活動して天分を発揮してこそ、始めて社会が進歩するのである。個人を無視した社会は決して健全な社会といわれぬ。
愛は知の極点である。