肝胆ブログ

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「相馬一族の中世 感想」岡田清一さん(吉川弘文館)

 

あけましておめでとうございます。

 

相馬一族、そのなかでも主に奥州相馬氏の中世……鎌倉時代室町時代・戦国時代・相馬藩成立までを俯瞰した書籍が出ておりまして、歴代の社会状況と相馬氏の動向がたいへん分かりやすくまとめられていてかんたんしました。

 

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奥州の名族、相馬氏。下総千葉氏の一族で、常胤(つねたね)の子師常(もろつね)が下総国相馬御厨(そうまのみくりや)を本領として相馬氏を称する。奥羽合戦で陸奥国行方(なめかた)郡を得て移住。南北朝期は北朝方として戦い、その後も、白河結城氏や伊達氏との抗争を経て中村藩六万石の藩主となるまで、相馬一族は激動の中世をどう生き抜いたのか。支配圏の拡大や戦略を通して一族の歴史を描く。

 

 

おおきくは上記引用の通りでして、相馬氏の誕生から南北朝~戦国時代をシームレスに描いてくれているのが満足度高いです。

相馬氏といわれると一般的に関心が高いのは野馬追と戦国時代だと思いますが、戦国時代だけを切り抜くのではなくて南北朝時代の頃から流れを記されていると理解が進みやすくていいなあと実感しました。こうした史料が一定程度残っているお家は、同じように中世全体を概観するような書籍が増えてもいいように思いますね。

 

 

以下、個人的に印象に残った箇所であります。

 

  • 島津氏と実は縁戚な相馬氏。しかも嫁入りした娘経由で島津氏に本拠の下総安孫子界隈を譲渡してしまっている……!

  • 鎌倉時代を通して、一族の分立と相続争い、北条得宗家の房総権益進出などが相まって、所領地であった奥州への移住が始まる

  • 相馬氏を含む南奧勢は、南北朝時代の争闘が激しいですよね……相馬氏は北朝方として北畠氏や結城氏たちとガチで戦い続けます。そして、その中で一族の統御が進んでいく……とはいっても後の戦国大名ほど中央集権に至るはずもなく、なかなか一族・家中統制が大変そうです

  • 北畠顕家さんの戦い、観応の擾乱など、南北朝時代の有名な出来事について相馬氏の視線を通して奥州の様子が深掘できるのが読み応えあって楽しい

  • 南北朝時代を経て、戦国時代に至るまで続く奥州の権力分立ができあがっていく様が興味深いです

    「奥州に四探題なり、吉良殿、畠山殿、斯波殿、石塔殿とて四人御座候」

     

  • 奥州統治は鎌倉府の仕事なのか京(室町幕府)の仕事なのか。室町時代が進む中、鎌倉府をめぐる諸事件にもしっかり巻き込まれる奥州勢。そんな中、幕府と鎌倉府の対立を利用してシレっと勢力を広げていく相馬氏

  • 永享の乱結城合戦後、幕府や鎌倉府の統御が及ばなくなり、いよいよ各勢力の競合状態に陥る南奧

  • 戦国時代はじまる。伊達氏天文の乱にておおきく活躍し、勢力をさらに広げる相馬顕胤さん

  • 盛胤・義胤の二屋形体制で戦乱を乗り切っていく相馬氏。基本的には伊達氏との抗争が主軸ですね。そうしているうちに豊臣秀吉さんの小田原攻めがはじまり、参陣できないどころか伊達領に攻撃まで加えているのになぜか許される相馬氏。石田三成さんとの繋がり強さが背景にあるようですが実に不思議です。そもそも石田三成さんとそれだけの信頼関係をいつの間に築き上げたのでしょう?

  • 関ヶ原の戦いで静観を決め込み(「一段と静か」)したにもかかわらず、なぜか許される相馬氏。「私曲無く明白にして神妙奇特」と判断されたようですが、実に不思議です。
    戦国末期の相馬氏の安堵されっぷりは本当に不思議。多少は名族とはいえ、改易されたもっと権威ある名族はいくらでもいるのに。義胤さんや利胤さんの見事な交渉力によるものなのでしょうか? 伊達政宗さんや津軽為信さんのようなパフォーマンス伝説が残っていないだけに、地味に謎ですね。

  • 戦国時代末期、相馬氏と佐竹氏の関係性が急速に深まっているのがなんかいいですね。江戸時代に入ってから、相馬氏から佐竹氏へ「義胤の義の字は佐竹義重さんにもらった経緯があるので、子どもに義の字を使っていいか、佐竹さんのご了承を得たいんですけど」と連絡しているエピソードが好き。
    本当に佐竹義重さんから義の字をもらったかどうかは不明みたいですけど

  • いうても奥州相馬氏は相馬氏嫡流ではもともとなかったところ、相馬藩として権威を形成していく中で、下総の旗本相馬氏への対抗もあって江戸時代に「平将門子孫」をアピールし始めるのが納得感高い

 

などなど。

 

 

いずれも史料を誠実に読み解いておられることが伺え、充実した記述になっております。相馬家ファンはもちろん、千葉家ファン、奥州中世史・戦国史ファンにもおすすめですね。

 

 

 

最後に。

 

相馬氏といえば所領が東日本大震災被災地域であることはよく知られていますところ、著者の以下のコメントに胸を打たれました。

被災直後に開催された「相馬野馬追」は、規模こそ小さかったが、地域住民にとって大きな希望になったと思える。被災した文化財・史跡の復旧も進むなか、一三年が経った今もほとんど手付かずに近い「中村城」が一方にある。悔しい限りである。地域の歴史叙述が、地域に住む方々に、あるいは地域の振興にどの程度関与できるか今は断言に苦しむ。しかし、「相馬野馬追」が示したように、「歴史」という地域遺産の活用が求められることはいうまでもない。

 

日常、歴史の研究が地域社会と交わる機会はけっして多くはないかもしれませんけど、東日本大震災のような極限状態にあっては、誰もが地域復興の視点を持たざるを得ず、また、その中でご自身の微力や無力に苦しんだことも一度や二度ではないのでしょう。歴史研究に携わる方に限った話ではありませんが。

 

 

東日本大震災に限らず、いまも被災からの復興の遅れに苦しむ方はあまたいらっしゃいます。当該地域にお住まいかどうかにかかわらず、少しずつでも善意と力とが寄り集まって、平穏や安寧が取り戻されていきますように。