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「エロティシズム 感想 エロと神秘の相似性」ジョルジュ・バタイユさん / 訳:酒井健さん(ちくま学芸文庫)

 

以前読んだバタイユさんの「呪われた部分」が面白かったので、代表作っぽい「エロティシズム」を読んでみたらこれも面白くてかんたんしました。

たまには哲学書を読んでいる時間というのもいいものですね。理解が追いついている訳ではまったくありませんが、自分のレベルなりにあれこれ考えるきっかけになっていいものだと思います。

 

「呪われた部分 全般経済学試論*蕩尽 感想 溜めすぎは良くない、適度に出して世界平和」ジョルジュ・バタイユさん / 訳:酒井健さん(ちくま学芸文庫) - 肝胆ブログ

 

www.chikumashobo.co.jp

 

 

表紙のセクシーな彫刻はベルニーニさんの「聖テレジアの恍惚」です。

決していかがわしい理由でこういう表情をしている訳ではないのですけど、宗教者としての神秘的な恍惚体験とエロティシズムな恍惚体験の相似性を正面から指摘している哲学書というのも斬新ですよね。

 

 

本文の概要は

労働の発生と組織化、欲望の無制限な発露に対する禁止の体系の成立、そして死をめぐる禁忌…。エロティシズムの衝動は、それらを侵犯して、至高の生へ行き着く。人間が自己の存続を欲している限り、禁止はなくならない。しかしまた人間は、生命の過剰を抑え難く内に抱えてもいる。禁止と侵犯の終りなき相克にバタイユは人間の本質を見ていった。内的体験と普遍経済論の長い思考の渦から生まれ、1957年に刊行された本書によって、エロティシズムは最初にして決定的な光を当てられる。バタイユ新世代の明快な新訳で送る、待望の文庫版バタイユの核心。

 

というものですので、まったくエロ本には当たりません。そういう内容を期待して高校生や大学生が手を出すのはやめておいた方がいいでしょう。

むしろ、性的経験が一定程度ないと理解しにくい文脈も多いので、若齢期の方はこの本を読む前にまず現実の恋愛に向き合った方がいいと思います。

 

 

本の内容をものすごく単純化(=私がなんとなく理解できたレベル)して言えば、

  • 人間が労働を始めたことで、労働の生産性を阻害する「エロいこと」等は禁止されるようになったよね
  • でも、人間って労働とかの合理的な面しかない訳ではなくて、衝動的なエロいこととかを内に抱えているよね
  • 人間存在の全体性を掴むためには、エロティシズムに目を向けることも大事だと思うよ

的な感じでしょうか。

 

なんとなく、著者自身も哲学者としての専門性の隘路に課題性を感じておられて、人類の総合的・総和的な地平に向かうためにエロティシズムに着目したんかなみたいな印象を抱きました。

言語化しにくい人間の一面に人々の目を向けさせるために、かつてはキリスト教の神秘体験とかを題材に挙げればよかったのかもしれませんが、現代人がより広範に共有しやすいテーマとしてエロティシズムを掲げるのは非常にセンスがよい気がします。

バタイユさんが生きた時代以上に現代は専門性や分業性や合理性が重視される世の中ですから、やっぱり全人類が同じ目線に立ってイメージできるエロティシズム(とかアートとかスポーツとか)って我々が思っている以上に大事なのかもしれない。

 

 

以下、印象に残ったフレーズを。単純に言い回しとして面白い部分を深みます。

 

聖女は、恐怖に駆られて好色漢から遠ざかる。好色漢の恥ずべき情念と聖女自身の情念が同一であることを、聖女は知らずにいる。

 

エロティシズムはとりわけ、労働の歴史と分離して考察することができない。宗教の歴史と切り離しても考察することができない。

 

エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだと言える。

 

エロティシズムあるいは宗教を認識するためには、禁止と侵犯が対等で対立しあっている個人的な体験が必要なのである。

 

「禁止は侵犯されるために存在している」

 

エロティックな痙攣は充血した生殖器官を自由に解き放つ。これら生殖器官の盲目的な活動が、恋人たちの冷静な意思を超えておこなわれるのだ。冷静な意思に代わって、血をみなぎらせた性器の動物的な運動が出現するのである。理性によってもはや制御されない暴力が、性器を衝き動かし、爆発へ導くのである。そして突然、この嵐(の不安)を乗り越える衝動に従うことが、心の喜びになるのだ。肉の運動は、冷静な意思が無くなった時に、限界を超え出る。私たちの内部にあって肉とは、節度の掟に対立するこの超出のことなのだ。

 

性器が充血すると、それまで生が立脚していた精神の平衡は崩れてしまう。激情が、突然、一個の存在を奪ってしまうのだ。この激情は私たちにはなじみのものだが、しかし私たちは、たとえばある女の上品さに心打たれていて、その女の愛欲に乱れる様など知りもしなかった男が、策を弄して、そのような様をこっそり見たときの驚きは容易に想像できる。この男は、その女のこうした様に、一種の病気を、犬たちの激情にそっくりのものを見て取るかもしれない。あれほど上品に客を迎え入れていた女性の人格が、発情した雌犬に入れ替わってしまったかのようになるのだ……。

 

エロティシズムの本質は汚すことだという意味で、美は第一に重要なのである。禁止を意味している人間性は、エロティシズムにおいて侵犯されるのだ。人間性は、侵犯され、冒涜され、汚されるのだ。美が大きければ大きいほど、汚す行為も深いものになってゆく。

 

ある意味でサドの作品は、暴力と意識の二律背反を明示したと言える。だが彼の作品の独特な価値はむしろ、人々がそれまで、言い逃れや急場しのぎの否定を探しながら、ほとんど目をそむけてきたものを意識のなかへ入れようとめざしているところにある。

 

エロティシズムと神秘主義という二つの領域が近接していることは明白である。

 

哲学がまずもって総合化作用としての可能事の総和であるのならば、哲学の本質によりよく応えているのは、結果到達のための企てを特殊専門化することよりも、つまり企ての効率を保証する特殊専門化よりも、欲望の力なのではないかという問いです。

 

エロティシズムの欲望は、禁止に打ち勝つ欲望にほかなりません。

 

 

いい本だと思います。

人類のためにも、これからも素敵なエロいコンテンツがたくさん世の中に増えていきますように。