肝胆ブログ

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評伝「世阿弥 感想 大衆性と芸術性、一過性と永遠性」北川忠彦さん(講談社学術文庫)

 

講談社学術文庫で復刊された「世阿弥」評伝を読んでみましたところ、単純な世阿弥さんアゲにとどまらない、同時代の政界・芸能界動向や世阿弥作品の批評・他の能作家作品との比較等々の多角的な視点で実像を解きほぐす内容になっていてかんたんしました。

 

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現存する最古の演劇といわれる、能楽
今から約600年前の室町時代に、世阿弥(1363~1443?)は、当時の大衆芸能を芸術へと昇華させ、『井筒』『高砂』『砧』『実盛』『葵上』など今も上演される名作を遺し、『風姿花伝』を始めとする世界初の演劇論を執筆しました。
これほどまでの偉業をなしえたにもかかわらず、肖像画の1枚もない。
世阿弥とは、一体どんな人物だったのでしょうか? なぜこの時期に、これほどまでの仕事をなしえたのか――。
その時代背景や彼の思想哲学を、父・観阿弥や、禅竹、金剛などライバル達との作品比較、伝書から見る芸論などから細やかに考察。
晩年、大衆に拒絶され、自身も佐渡に流された世阿弥の生涯も辿りながら、彼が求めた「老いの美学」についても検証します。

本書は『世阿弥』(1972年 中公新書)より、舞台写真、資料写真を新たに差し替え、解説を加筆、文庫化したものです。

解説「異端者としての世阿弥」 土屋恵一郎(明治大学長)

 

 

はじめに
第一章 世阿弥とその時代
一 猿楽能の誕生
寄合――観客層の拡大 物まね芸の系譜 歌舞の伝統
二 父・観阿弥
猿楽能と田楽能 天下の名望 「中初・上中・下後」の人
三 世阿弥の活躍――応永まで
生年論 同朋衆・時衆の問題 伊賀観世の系図 少年世阿弥 世阿弥二条良基 将軍義満と世阿弥 世阿弥の再出発 北山邸行幸と義満の死 第一次苦境時代 寺社猿楽への後退 音阿弥の生長 応永末年の世阿弥

第二章 世阿弥の作品
一 能の作者
能の作者 世阿弥の作品 能の分類 世阿弥の作品傾向
二 大和猿楽の伝統――劇的現在能
大和猿楽の特質 観阿弥の代表作<自然居士> 観阿弥の作品傾向 群小作家の作風 大衆作家宮増 世阿弥と劇的能
三 能の神々――脇能
脇能と歌舞性 <高砂>と<竹生島> 神の影向 先行芸能延年風流 小風流と脇能 大風流と脇能 世阿弥の脇能 非世阿弥系作者の脇能 神は鬼がかり 世阿弥の脇能改革
四 『平家物語』と能――修羅物
修羅物と世阿弥 複式夢幻能 脇能と修羅物 古修羅の世界 花鳥風月と修羅 憑き物による物狂と修羅 “金剛”の作品 『平家物語』の二つの側面
五 王朝古典の世界――女体能をめぐって
王朝女性の能への登場 憑き物と女性 物狂から複式夢幻能へ――<松風> 物着と複式夢幻能――<井筒> その他の複式夢幻能――<融><須磨源氏>等 女体能の行方 <砧>の位置づけ――準夢幻能

第三章 世阿弥の芸論
一 世阿弥の伝書
世阿弥の伝書 伝書の時代区分 前後二区分説
二 『風姿花伝
風姿花伝』のあらまし 一、年来稽古 二、物学条々 三、問答条々 『花伝』四~六 別紙口伝
三 『花習』以後
『花習』以後の代表作 物まねから三体へ 花から幽玄へ 安定→蘭位→妙所

第四章 世阿弥の流れ
一 晩年の世阿弥
能役者としての世阿弥 第二次苦境時代 十二五郎の手紙 一座の危機 次男元能の出家 長男元雅の客死 「却来」という境地 佐渡配流 佐渡よりの書状 金春禅竹と鬼の能 最晩年
二 能の流れ
観世小次郎の活躍 キリシタン能と太閤能 世阿弥の影 能の固定化

世阿弥年譜
参考文献
あとがき
解説「異端者としての世阿弥」土屋恵一郎(明治大学長)

 

 

原著は1972年発刊とのことなので、いまはもっと研究も進んでいるのかもしれませんが、素人の私的にはどこを読んでも新鮮な指摘ばかりで面白かったです。

 

世阿弥さんは少年時代から足利義満さんや二条良基さんの寵愛を受けていたことで知られています。

二条良基さんいわく「只物にあらず候」「なによりも又顔立ち、振風情ほけほけとして、しかもけなわ気(健気?)に候」。ほけほけって表現いいですね。

 

その上で「風姿花伝」「現代でも演じられる多くの能作品の作者」「教科書にも載っている」ですから、晩年に佐渡配流になったとは聞いたことあってもそんな大ごとに受け止めていなかったのですが……。

この本であらためて世阿弥さんの生涯をあらためて通読してみると、

  • 父・観阿弥さんが大衆からも京の有力者からも厚い支持を集め
  • 世阿弥さんも少年期から京の有力者に称賛されるも
  • やがて世阿弥さんの作品は大衆性を拒絶し、古典文学を題材に「知識人」向けの芸術性・幽玄を突き詰めていくようになり
  • 将軍代替わり等の影響もあり、スポンサーの贔屓も別の能役者に移っていき
  • 晩年は佐渡に配流され、人知れず死亡

 

という流れをよく理解することができ……

若い頃の大人気があったとはいえ、世阿弥さんもまた「死後に評価が高まった芸術家」というやつだったんだなあということがクリアに理解できました。

 

 

現代の能の特徴、幽玄性、シテは一人、良くも悪くも夢か現か的な世界観で眠くもなるし幻想的でもあるし謎の心地よさや不思議さを味わうことができるやつ……は世阿弥さん特有のもの。

世阿弥さん当時の能は、もっと登場人物も多かったり演出も派手だったりセリフも分かりやすかったりテンポも倍くらい早かったり勧善懲悪ものや同時代の実話を活かしたもの等素人ウケする作品が多かったりだったようで、世阿弥さん作品(≒現代の能)は同時代のなかでは浮いている側だった。

大衆性高い能は秀吉さん時代くらいまで人気があったが、江戸時代に入ると能は世阿弥さん作品寄りになっていき、大衆性の高い芝居は歌舞伎等にシフトしていった……

 

と、能というジャンルの流れも学べていいですね。

 

 

土屋恵一郎さんの巻末解説もすごく鋭くて、江戸時代に世阿弥さん的作品が能の中心になっていった理由を

一つは、能は舞台で上演されるだけではなく、謡として独立に稽古されてきたことである。文章として面白く、文学にもつながらなければ、「謡う」ことの興味につながらない。

もう一つは、世阿弥の作品が、「シテ一人主義」であったことがある。

 

と、世阿弥さん作品が「古典文学を題材にしているので文章として深く面白い」「シテ一人作品なので一人カラオケ的に稽古しやすい」ことを指摘されています。

確かに……現代でも、劇団やバンドを組まないと練習できないジャンルよりも、一人で練習できるジャンルってとっつきやすいですもんね……。

 

 

この本は北川忠彦さんの原文も土屋恵一郎さんの解説もあたたかくて、世阿弥さんの天才性や孤独性、苦難の生涯を充分に評しつつ、観阿弥さんや宮増さん等、世阿弥さんとは違う方向の当時の能関係者の魅力もいきいきと著述してくださっているのが素敵だと思います。

 

私は風姿花伝のストイックな文章がすごい好きなんですけど、あの文章は世阿弥さんが若い頃に「父・観阿弥さんの言葉を思い出しながら書いた」もので、世阿弥さんが独自性を突き詰める前段階のもの。

 

その観阿弥さんについて

観阿弥の偉かったのは、大衆への接近とともに芸術性の向上ということを忘れなった点である。それは具体的には歌舞の要素を物まね芸にとり入れるということであった。物まねオンリーでは、どうしても芸が単調になり卑俗に流れ易い。そこで観阿弥の目をつけたのが歌と舞であった。これが、能を単なるリアリズム演劇でなく、様式的な象徴劇として、幽玄の道に押し出す第一歩となったのである。

義満は和歌・連歌・蹴鞠・管弦等の教育を身につけたが、やはり育ちは育ち、いきなり王朝的な世界にひたるよりも、義満にとっては観阿弥の「幽玄的物まね」の方が、実はくつろげた場所だったのではなかったか。

義満の庇護を受けながらも、観阿弥は、やはり自らの基盤である大衆の存在ということは忘れなかったようで、晩年まで田舎や山里へも出向いて行ったらしく、至徳元年(一三八四)五十二歳で死去したのも、駿河国浅間神社の法楽能に下向して、はなやかな舞台姿で見物を魅了した直後のことであった。いかにも大衆の中から出た観阿弥にふさわしい最期の場であったと言えよう。

観阿弥世阿弥はどちらが偉いか。これは難問である。一人を選べというのはしょせん無理であるが、大きさでは観阿弥、深さでは世阿弥といっておけば、まずは当たらずとも遠からずということになろうか。

 

等とその魅力を存分に語ってくれているのがめっちゃ嬉しいです。

一大衆の私としては、観阿弥さんの生き方に一種のヒーロー性を感じてしまいますね。現代の「ビッグになってもファンやライブを大事にしてくれるアーティスト」の原型とでもいいましょうか。

 

 

その一方で、世阿弥さんの天才性評価、同時代ゆえに生々しい太平記を避け、平家物語を題材に叙情豊かな作品群をつくりあげたところなんかの指摘もグッときますね。

世阿弥の修羅物は、妄執とか憑き物とかいった古い修羅の世界を、脇能の形式を応用しながら、滅びの美学として捉え直したものと言えよう。夢幻能という構成で古典の世界を再出し、それを叙情的に描きつつ宗教的に締めくくるという、前代の修羅とはまるで違った一つの世界を創出したところに大きな意味があったのである。特にこの場合、同時代の『太平記』を避けて『平家物語』という古典の、それも叙情的側面をあざやかに捉え、主たる素材としたところに、その成功の因があったということは確認しておく必要があろう。

 

まあ、同時代の観客のニーズは「登場人物の活躍や武勇譚を観たい」ですから、あまりウケはよくなかったっぽいですけど……。

 

 

 

こうしてこの本を読んでいると、単に能の世界だけにとどまらず、「この時代に求められるもの」と「次の時代以降にも残っていくもの」の両立がいかに難しいかを思い知らされます。

世阿弥さんや能に興味のある方だけでなく、アートやものづくりに励む方であれば広く読んでいただくといいんじゃないでしょうか。

 

 

どんなジャンルも受け手のアンテナがあって初めて成立するのは間違いありませんので、真摯な作り手がよき受け手に、受け手がよき作り手に、一つでも多くの出会いがありますように。

それが大衆性であれ芸術性であれ。