高野山にかんたんした話の後半です。
↓前半
高野山メインロードの西側「金剛峰寺」「壇上伽藍」「霊宝館」について記載します。
金剛峰寺
恥ずかしながら今回初めて知ったのですが、現在の金剛峰寺を創建されたのは豊臣秀吉さんなのだそうです。
紀州征伐の際、当初は高野山も焼き討ちされるはずだったところ、木食応其(もくじきおうご)さんという高野山の僧侶が秀吉さんを説得し、高野山は降伏を許されたとのことで。
この木喰応其さんは近江六角家の家臣だとか一門だとかの出身と言われていますが、詳細は良く分かっていないみたいです。
木喰応其さんは豊臣政権のブレーンの一人として活躍するようになり、九州征伐などでも活躍します。
並行して秀吉さんをバックに高野山の再興に尽力。
秀吉さんのお母様を弔うため、現在の金剛峰寺のもととなった青巌寺を開きました。
もともと「金剛峰寺」とは高野山全域を示す言葉だったそうですが、現在は「総本山金剛峯寺といえば高野山全体」「単に金剛峰寺といえば寺院としての金剛峰寺を指す」という使い方をされることが多いようです。
↓入口。
↓外観。
豊臣秀次さん自刃の間(柳の間)などもございます。
柳の間の近くには休憩スペースがありますので、哀しい気持ちになった直後にお茶とお菓子をいただいて心を休めることができますよ。
蟠龍庭という大規模な石庭も見応えがありますし、三石のごはんを一度に炊けるというお釜(炊事所)も見ものです。
ぜひ内部を拝観してみてください。
↓近くには全国の金剛講の総本部もあります。
すんごいスケールの建物でびっくりしました。
若い人は“講”って言っても分からないかもしれませんが、あらためて巨大な力を有する組織なんだなあとかんたんさせられます。
壇上伽藍の中門
高野山まで足を延ばした理由はこれを見たいがためでした。
以前NHKの「新日本風土記」で再建を進めている場面が特集されていて、一度実物を見てみたかったのです。
↓'15年に再建された中門。
威風堂々としていて、正統派の格好よさで、すこぶる素敵だと思います。
↓仰げば尊し。
↓いいよいいよー。はぁはぁ。
↓朱に交わって赤くなりたいものです。
↓再建の経緯。
↓壇上伽藍の様子。3枚目が高野山の中心「金堂」です。
私の体感では、この壇上伽藍は「奥之院」に勝るとも劣らないほどありがたい場所でした。
山深い土地にこれほど大規模な宗教都市を築いたとは、驚嘆すべきことだと思います。
霊宝館
高野山が所蔵する貴重な宝物が展示されている博物館です。
仏像・曼荼羅好きにはたまらないプレイスですよ。
↓外観。壇上伽藍の近くにあります。
私が訪れたときは「正智院の名宝」展('17年度夏期企画展)をやっていました。
真言宗なので仏像は不動明王が多かったです。
明王さんもそれぞれ表情や雰囲気が違うもので、見比べると面白いですね。
個人的には如意輪観音像の容姿が好みのタイプでした。
地味に嬉しかったのが安宅冬康さんゆかりの連歌集が展示されていたことです。
(木喰応其さんも含め、戦国時代は高野山でも連歌ブームだったみたいです)
「名歌懐中鈔」という冊子で、由来としては堺の連歌師「宗訊」さんが橘鴨冬(安宅冬康さんの別名)に請われて天文十八年(1549年)に書写したものを桃山時代になって更に写したものだそうです。
中身は新古今歌人の和歌をセレクトした「六家抄」から更に抄出したものとのこと。
1549年といえば江口の戦いです。
三好長慶さんが細川家を下剋上した節目の年です。
長慶さんの弟である冬康さんも淡路島から海を渡って摂津に来てはった訳ですが、ちゃっかり堺に寄って歌集を注文していたんですね。
同年、江口の戦いの相手方である三好宗三さんも堺の天王寺屋(津田宗達・津田宗及父子)と曜変天目茶碗を使いながら茶をしばいていたみたいですし、生き死にの戦いをしながら風流も楽しんでいたのが当時の武士だったのかもしれません。
本館では独鈷杵なども展示されていました。
そう言えば「新桃太郎伝説」のえんま様の武器が独鈷だったなあ。
和風ファンタジーと密教は相性がいいですね。
以上、2回に分けて高野山のご紹介でした。
大阪中心部から2時間半くらいで着きますし、イメージほど遠くはないですよ。
(東京行くのと変わらんやんけと言われればその通りなんですが)
道すがらには真田家ゆかりの「九度山」もございますし、なにしろ日本屈指の歴史と支持を有する宗教聖地ですから、一生に一度くらいはと思って訪れてみることをおすすめいたします。
この先もずうっと法灯が護持されていきますように。