肝胆ブログ

かんたんにかんたんします。

「死顔」吉村昭さん(新潮文庫)

 

 

吉村昭さんの遺作「死顔」にかんたんしました。

 

www.shinchosha.co.jp

 

 

全部で150ページのほどの短い作品集で、

・ひとすじの煙

・二人

山茶花

・クレイスロック号遭難

・死顔

の五作が収録されております。

その中でも、同じエピソードを題材にしている
「二人」と「死顔」を紹介させていただきます。

 

以下、ネタバレを一部含みますのでご留意ください。

 

 

 

 

 

 


いずれも吉村昭さんの晩年期における私小説風の内容です。

吉村昭さんの次兄が余命幾ばくもないということで、
もう一人の兄と一緒に見舞いに行った、
その見舞い直後に次兄は息を引き取った、
葬儀に出かけた、という筋になります。

いずれの作品でも「人が息を引き取るのは干潮時」という俗説が
紹介されていて、吉村昭さんの家族の死は実際に干潮時だったことが
述べられており、興味を引かれました。

 

二人の方では次兄の愛人・認知した子という存在が挿入されていて、
かつて吉村昭さんが愛人から相談の呼び出しを受けたり、
見舞い前に彼らの扱いについて甥から相談を受けたり、
葬儀後に愛人から電話がかかってきたりという経緯が描かれています。

死顔に比べると、全体として描写がやや客観的なように思えます。


死顔の方は吉村昭さん自身の死が近づいてきているせいか、
人の死を送るということ、自らの死を見据えるということに
描写の焦点が当たっているようです。


例えばどちらの作品ももう一人の兄との電話で締めくくるのですが、


二人では

兄は、あらたまった口調で、
「今さらこんなことを言うのも変だが、人は必ず死ぬものなんだね。兄や妹、弟が八人いたのに、一人一人確実に死んでいった。残ったのは、あんたと私だけだ」
と、言った。
次兄の死で同じようなことを考えていた私は、かすかに笑った。
「どうだね、生れた町の小料理屋にでも行って、二人で飲まないかね」
「いいですね。ただ、この寒さじゃどうにもならない。桜でも開花した頃ですね」
「そうね。そうしよう」
兄は、じゃ、またと言うと、電話を切った。


死顔では

「とうとう二人きりになりましたね」
「そうだね。考えてみると、つぎつぎによく死んだものだな」
私は、兄が私と同じことを考えているのを知った。
「兄さん、長生きしてよ」
私は、思いをこめて言った。
「わかっていますよ。ただし私は八十だからね。いつこの世におさらばかわからない」
兄の声は、相変わらずはずんでいる。
「なんのなんの。兄さんは元気だから大丈夫だよ。私の方が先かも知れない。でも、年の順は考えて下さいよ。私は六歳若いんだから……」
「わかっていますよ。そのくらいの常識はありますから……」
兄のかすかに笑う気配がした。
「ともかく御苦労様でした。これですべてが終わりましたね」
私は、受話器を置いた。


桜の咲く頃飲みにいこうという未来を含ませた二人と、
間近に迫ったそれぞれの死を見据える死顔、違いは明瞭ですね。


とは言え、いずれの作品でも吉村昭さん自身の「人に死顔は見せたくない」
「延命措置は望まない」というお考えや、次兄の死に際して
「最期は次兄の家族だけで看取らせてあげるべき」という姿勢が
よく描かれていて、それが読者に深い思惟を求める迫力となっております。

自身がどういう送られ方をしたいか、
近しい人の死をどういう形で送ってあげたいか、
これらは普段あまり意識しないけれども、
本当は絶対に考えなければならないことですよね……。


強い意志で未来に向き合いたい人、
あるいは近辺に死の匂いを感じる人におすすめしたいです。
少し、読むには気構えが要りますけれども……。

 

 


吉村昭さんの死にざまは、この作品で理想とされていた通りだったようです。

一方で、尊厳死問題も相まって、その死の有り様が盛んに取り上げられたのは
吉村昭さんの意志とは少し違うのではないかなと思います。

それぞれが静かに受け止め、考え、評することはまだしも、
ワイドショー的に好奇の目に晒すのはちょっと……です。


この本にも奥様である津村節子さんの「遺作について――後書きに代えて」が
掲載されていますが、これを読んだだけで吉村昭さんの死をきれいで立派な
ものであると単純に解するのではなく、その後の彼女の作品「紅梅」まで
読んで、後悔や煩悶まで充分に受け止めた方が……とも思うのです。


あくまで私個人の考えです。

 

 

最後に、川西政明さんによる解説の中で、次の文章にかんたんしました。
少し長いのですが引用します(改行は私の手によるものです)。

その吉村昭に死の想いがひそかに忍び寄ることがあったようだ。平成十二年十二月に短編集『遠い幻影』の文庫版が刊行された。
その解説で僕は、
「これらの短編を読むと、吉村昭のなかに、人は稲光する雷雨、激浪をうちあげる暴風、火を吹く山、地を揺する地震を避けようもなく経験するが、そのあとには風がそよぎ、空は晴れ、星はまたたき、大地は緑に輝く時が必ずくるという確信があることがわかる。荒々しい経験をしたあと、人は穏やかで普遍的な世界を肯定する場所に居場所を見つけるにいたる。それが人生の自然なのだと吉村昭は言っているように思える。その一方で、その自然にわが身をまかせることができない人もまた多い。それら人生の微細を吉村昭は短編で写しとっているのだろう」
と書いた。
これを読んだ吉村昭から手紙をもらった。そこには僕の説を受け入れた上で、
「なんとなく自分が一つの道に入って歩みはじめているのをかなりはっきり意識している」
ことを示唆し、それは
「まちがいなく、現実には老いを少しも感じないながら、小説家として死の沼への道を確実に下りはじめている思いをしているためです」
と告白してあった。
作家とはこうした意識を大事にしつつ一歩一歩と自分を深めていく人間なのであろう。


名文だと思います。
解説がよいと、その本を買ってよかったという気持ちが高まります。

 

 


以上、文庫本「死顔」のご紹介でした。


静かに死を迎えたいという願望に加えて、
死んでからも静かにありたいという願望が湧いてきました。

これは、欲目なんでしょうか。

 

静かな晩境と死後が叶いますように。