久しぶりにお芝居を見に行ってみたところ、あまりにも業が深い内容に重いものを抱きつつ、それだけに演じられている役者方の生命力が満ち満ちていてかんたんしました。
青柳尊哉さんが出ているのかあ。
DXダークリングの販促で「迷子を見つけられそう」とか仰ってたなあ。
くらいの気持ちでチケットを取ってみたところ。
とんでもなく重たい内容でびっくりしつつ、大人向けのハードな展開に唸らされ、役者方の好演にドキドキし、照明や音響の確かさに満足するという。
「やっぱり劇場で見るお芝居はいいよね!」な気持ちになれて幸せでした。
以下、詳細までは申し上げませんが、ある程度のネタバレ要素を含みますのでご留意ください。
上のビラ画像にあります通り、「事故で家族を失った被害者」に焦点を当てたお話になります。
3家族で行った旅行先の民宿が過失で火事になり。
芦沢家は自慢の次女を失い。
葛生家は両親を失い。
加藤家は全員無事だったという。
3家族で民宿経営者の老人(火事で死亡)遺族を訴える。
一審は敗訴。
その間、芦沢家の母親のメンタルはボロボロに。
葛生家の残された青年は引きこもりがちに。
加藤家は全員無事だっただけに超気まずい。
控訴しますか? しませんか?
控訴をするだけの精神的体力は残されていますか?
民宿経営者遺族に復讐すれば、賠償金を得れば幸せですか?
過失で火事を起こした民宿経営者は悪人なの? 死後も責められて然るべきなの?
芦沢家の長女、葛生家の残された青年、加藤家の次男は幼馴染。
永遠に変わらないと思えた幼馴染関係はこれからも変わらないのか?
みたいな。
どれを取っても重たい要素が、出演者の熱演に乗ってガシガシ飛んできます。
照明の当て方、開演前含めて音響の効かせ方も、いい感じに観客の気持ちをザワつかせてくださってですね。
そうとう削られるので、疲れている時に見るのはお勧めしないっす。
濃厚な料理を食べる前は胃腸を健やかにしておきましょう。
個人的にとりわけ印象に残った見どころを2つほど。
1つは家族描写のリアリティの高さ。
岡本玲さん演じる芦沢家長女の長女っぽさ。
竹石悟朗さん演じる加藤家長男の長男っぽさ。
長女は万事に気を配り、家族の意思を代弁し、ともすれば自分を失う。
長男はフォロー力に優れ、締めるところは締める役割を担う。
田野聖子さんと武藤晃子さんが演じる芦沢家・加藤家の母親っぽさ。
子どもへの愛情深さと、子どもを失った際の脆さ。
世間体への過剰な配慮。
セリフ回しと演技表現が相まって、こうしたどこかで見たことあるような家族の姿の再現っぷりがハンパないんですよ。
リアリティがめっちゃあって、共感めっちゃできますから、彼らの悲しさや優しさがめっちゃ胸にきます。
いい。
でも、重い。
でも、いい。
そんな風に気持ちがぐるぐるして満ち足ります。
もう1つは、青柳尊哉さんの業の深さ。
詳しくは申し上げませんが……
青柳さんが担う葛生家の残された青年役は、あまりにも業深いです。
部屋に引きこもっている際の演技、
たどたどしく幼馴染の二人に語り掛ける演技等々、
惹きつけられるシーンが続きます。
白眉は、中盤過ぎくらいで、観客を背にひとり踊るシーン。
表情を見せずに、あたかも愉快に、あたかも滑稽に踊り続ける彼の姿がですね。
もう見ていられないほどに苦しくて美しくて、来てよかったと思いました。
青柳尊哉さんの演技・佇まいは、もはやオリジナルな域に届いていると言ってもいい気がいたします。オリジン。
ウルトラマンネタで恐縮ですが、そもそもジャグラスジャグラーもたいがい業深い迷子キャラなのに、まさかジャグラスジャグラー以上に救われない設定の人物を演じてはるとは思わなかったよ!
最後に、舞台を見て思ったことを少しだけ。
この作品は明確な方向性を示さないまま、登場人物が迷子のままに終わります。
重たいものをぶつけられるだけぶつけられて救いを見せずに終わるので、観客の気持ちもしばらく迷子になってしまう感じです。
「かまいたちの夜:サバイバルゲーム編」みたいな、サウンドノベルゲームとかアドベンチャーゲームのバッドエンドルートだけを見せられて終わるようなイメージですね。
故意の犯罪、いわゆる「罪と罰」とは違い、
過失・重過失による不幸は加害者側も被害者側も非常に辛いものがあります。
火災、交通事故、スポーツ事故、労働災害等々……
人がどれだけ賢明になっても、過失による不幸をなくすことはできないでしょう。
むしろ、人の努力で過失が減れば減るほど、実際に過失による不幸が生じてしまった場合の精神的ダメージは大きくなってしまうかもしれません。
このお芝居で示されたケースは、自分も含めて誰の身にも起こり得る内容だけに、想像するだけで重く、辛い。
親しい身内を失えば冷静でいられるはずもなく、大きな感情に振り回されることも至極当然だと思います。
「あらゆる不幸をあらかじめ覚悟しておく」とか、「己や身内も含めて諸行無常」とか、普通の人間がスッとたどり着ける境地じゃないですからね。
そんな中、私の主観的な解釈をひとつだけ申し上げますと。
「迷子」って、「神隠し」や「捨て子」と違って、「誰かに見つけてもらう」結末までがニュアンスに含まれている言葉だと思うんですよね。
きっと、登場人物たちも、いったんは迷子になっても、どこかで手を差し伸べてくれる人に出会えることでしょう、という救いは仄めかされているんじゃないかなあ。
そうだといいなあ。
事故前のような関係には戻れないかもしれないし、人生の道をこれからもずっと一緒に歩いていける訳ではないかもしれないけど。
少なくとも、迷子の子が、人心地がつける場所までは連れて行ってくれる。
そういう気持ちのあたたかさを、登場人物たちは互いに持っていたと思うんです。
本当に、私見、妄想での希望ですけどね。
近頃はなかなか迷子に声をかけにくいとも言われますけれども、迷子がいたら声をかけて笑わせて案内してさしあげられるような人がたくさんいる世の中でありますように。
私もそうありたい。