ロシア文学「現代の英雄」がマジおすすめと聞いたので読んでみましたところ、「高校とか大学とかのときに、こういう自意識が肥大化した男おったなあ」みたいな感慨がひしひしと募ってきてかんたんしました。
日本では「英雄」と訳されていますが、訳者あとがきでもどう訳すか悩んだとおっしゃっている通り、「主人公」の方が物語のテイストに合っている気がしますね。「世の中で活躍する=英雄」というより「自分が・自分は=主人公」という印象が残りました。
まあ歴代訳者さんもその辺は承知で、素直に主人公とかヒーローとするより、皮肉も込めて「英雄」としているのでしょう。
おおざっぱに言えば19世紀ロシアのイケメンヤリチンの話ですから、それこそ大学生くらいの読者にも楽しんで読んでいただけるのではないでしょうか。
「私」はカフカス旅行の道中に知り合った壮年の二等大尉マクシム・マクシームイチから、彼のかつての若い部下ペチョーリンの話を聞く。身勝手だがどこか憎めないペチョーリンの人柄に興味を覚えた私は、彼の手記を手に入れるが……決闘で夭折した、ロシアのカリスマ的作家の代表作。
物語は複数の編で構成されており、当初は「私」や「マクシム・マクシームイチさん」の観点でイケメン ペチョーリンさんの特徴・エピソードが語られ、本の後半ではペチョーリンさん主観でのエピソードが綴られます。
ものすごく乱暴にペチョーリンさんを紹介すれば、イケメン、都でなんかやらかしてカフカス(コーカサス)に飛ばされてきた、行く先々で女がらみの事件やバクチがらみの事件や無用なケンカを起こす、最後はペルシア方面で若くして死んだっぽい、という人。
そういう人物造形自体が19世紀の帝政下ロシアではセンセーショナルだったみたいで、当時は論評がそうとう盛り上がったようです。
それはそれとして、ペチョーリンさん的な若い男性は現代日本でもけっこう存在すると思いますので(メインストリームを占めるとまでは言いませんが)、いまでもペチョーリンさん描写が刺さりまくる当事者や被害者は少なくないんじゃないかなあと、楽しく読み進めることができました。
読むほどにペチョーリンさんの人物像解像度は確かに上がっていく、でもペチョーリンさんという人物がどうしたら幸せになれるのかとかどうやってペチョーリンさんと上手く付き合っていけばいいのかとかはまったく分からない、という物語構成が素敵。
特に「公爵令嬢メリー」編の周り全員を不幸にしているサークルクラッシュ描写が秀逸だと思います。「公爵令嬢メリー」編を読んだ後に冒頭の「ベラ」編を思い返すと、「お前ほんま何も反省しとらんな」力がいや増すのも素敵。
ペチョーリンさんの
やたら口が上手い、
やたらモテる、
刹那的、
運命論・宿命論をからかっているような一方ですがっているような、
やたら言葉を尽くして自分の心理や企みについて思いを馳せる、しかも日記にまで書いている……
といった特徴、ほんま「マジこいつ自意識デケぇな」「おったなあこんなやつ」感が強過ぎて好きとまでは言いにくいけど本として読む分には好き。
ペチョーリンさんのうぬぼれた名ゼリフをいくつか。
「俺は愛さないためにこそ女を軽蔑するのだ。そうでもしなければ、人生はあまりにも笑止なメロドラマになるだろうから」
ひとつだけ、いつも不思議に思っていたことがある。自分は、愛した女の奴隷になったことは一度もないし、それどころか、女の意志や心情をいとも簡単に手中に収めてしまうのがつねだった。
私はしばしば自分に問いかける。どうして、誘惑する気もなし、ましてや結婚する気もない若い娘の愛を虎視眈々と狙っているのか?
私には何もかも手に取るようにわかる、だから退屈なのだ!
私がほかの女を愛したという理由で、私に惚れた女もいたくらいだ。
ご婦人方は願うべきである。世の男性諸君が私と同じくらい女に精通することを。
自分の命なら、いや名誉でさえ、二十回だって賭けてやるのだが……けれども、自分の自由は売らない。
泣くのは健康にもよい。
等々、かっこつけて好き勝手なことを言いながら、決闘前にはしっかりビビっていたり、ヴェーラさんとのやり取り一つひとつには弱くて湿っぽいところが伺えたりするペチョーリンさんがかわいいんですよね。うっといけど。
ロシア文学と言えばとっつきにくいジャンルの代名詞みたいなところがありますけれども、ペチョーリンさんは良くも悪くもほんまにいそうなやつですから、とっつきやすいんじゃなかろうかと思います。
若い頃にあれこれ自意識を過剰に肥大化させるのはよくあることではありますが、なんやかんやの経験を通じて他人とも自分自身ともいい感じに付き合えるようになって、皆々様が安寧な暮らしを得ることができますように。