嘘か真か知らないが大寧寺の変の首謀者は三好長慶さんだという科学者もいる――というのが本当に発表されていてかんたんしました。
まあ真偽は私には分かりませんが、こういう黒幕とか悪役とかの立場であってもこの時代の三好長慶さんの存在感、他国への影響力等々が注目されるのはいいことじゃないかなと思いますし、最近は倭寇取締筋からの三好長慶さん評価もされている訳ですから、西国戦国史と畿内戦国史の交差がいっそう進展するといいんじゃないかなと思います。
東日本の活況を踏まえれば、西日本の戦国時代ってまだまだ盛り上げる余地があると思いますしね。
↓一般向けの紹介文(「彩都山口」)
https://sight-yamaguchi.jp/wp/wp-content/uploads/2021/10/sightyamaguchi_vol13.pdf
↓論文(プリンストン大学HP掲載の「山口県地方史研究」抜粋)
こんな論文が出ていたんですね。
「大内義隆さんが企てた山口への行幸/遷都計画」みたいなフレーズは耳にしたことがある気もしますが、そこから派生して大寧寺の変の裏に三好長慶さんや九条稙通さんがいたんだよみたいな話は知らなかったので新鮮でした。
あらためて、大寧寺の変といえば大内義隆さんが陶晴賢さんに討たれた、戦国時代を代表する国際的大事件であります。
原因は大内家の内訌的な文脈で語られることが一般的ですけれども、この記事や論文では、「朝廷行事や後奈良天皇自身を山口へ移そうとする大内義隆さんと、そのことに反対する三好家や九条家」という文脈で語られているのが目新しくなっています。
長慶さんや稙通さんが大きく取り上げられる一方で、なんとなく存在感が希薄になっている足利義輝さんたち幕府勢力が寂しい。
説そのものは非常に面白いものの、冷静に見れば突っ込みどころも相応にある印象ですし、長慶さんたちが陶晴賢さんを直接的に操る方法や操った証拠もありませんので、個人的には「長慶さんや稙通さんが朝廷行事の山口開催に反対していたくらいまではあり得るけれども、さすがに大寧寺の変の直接的首謀者とまでは言えないんじゃないか、陶晴賢さんが中央のそうした世論も意識して行動していた可能性はあるにしても」くらいが提示されている証跡的に穏当な見方かなあとは思います。
一方で、松永久秀室の父である広橋兼秀さんが変の前に山口から堺に移っていたり(いうても久秀さんと結婚前かな)、変が畿内に知られる前のタイミングで長慶さんが山口の多賀神社に匂わせ連歌を奉納していたりという指摘はだいぶ面白いですね。
義隆の死から三週間後、長慶は山口の多賀神社に連歌を奉納した。その中には「秋の葉のちる跡しのふ時雨かな」、「いてし都ぞいとゝ恋しき」といった象徴的な表現がある。
連歌奉納の時期から考察すると、長慶は他の朝廷関係者より早い時期に義隆の死を知っていた。
なんとなく三好長慶さん=無口で静かな人、というイメージを持っていたのですけれども、この説が本当だったら「でも匂わせは好き」という新たな属性を感じてしまう。
そう、私が真にかんたんしたのは黒幕説よりも匂わせ好き説の方なのです。考えてみれば連歌に畿内の名所を読み込むとか含めて、歌好き=匂わせ好きになるわいなあ。
冗談はさておき、だんだんと織田信長さん以前の畿内戦国史の解像度が上がってきたおかげで、各地方の戦国史研究においても中央の影響みたいな視点が取り上げられていっていて面白いですね。
今回は大寧寺の変&三好長慶というキャッチーすぎる内容だったので特に取り上げましたけれども、公家であれ幕府であれ細川家であれ、これからも各地の戦国時代研究のなかでひょっこり顔を出して新鮮な一面が明らかになっていったら嬉しいと思います。
こういう研究からあんがい大内義隆さん義兄弟である細川氏之(持隆)さんと三好家の手切れの原因なんかも飛び出してくるかもしれませんし、この頃の尼子家や毛利家や大友家それぞれの中央との関係なんかも深掘り甲斐がありそうですし。
各地域各時代の研究がますます縦横に繋がり、鮮やかなヴィジョンを私ども一般人に見せてくださいますように。
こんな流れが続けば、日本各地を旅する楽しみも一層強くなっていきましょう。