肝胆ブログ

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「神仏と中世人 宗教をめぐるホンネとタテマエ 感想」衣川仁さん(吉川弘文館)

平安時代後期~鎌倉時代頃の記録をもとに、中世の人々が神仏を実際のところどれほど信仰していたか、どのように接していたかを探る本が面白くてかんたんしました。

こういう、特定の人物や事件を掘り下げるのではなく、その時代全体の雰囲気や相場観に着目したような本もいいものですね。

 

www.yoshikawa-k.co.jp

 

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目次は次のとおりです。

 

現世利益を願う―プロローグ/

中世人の祈り
(「富と寿」のために/
 彗星を消す祈り/
 祈りのデータベース)/

中世人と神仏のパワーバランス
(恐るべき神仏/
 形式的に神仏の罰を恐れる/
 生活と宗教の衝突)/

正当性を得るために
(万人のために祈る/
 遠い祈り、近い祈り)/

祈りとは何か―エピローグ

 

「富と寿」のために、

形式的に神仏の罰を恐れる、

正当性を得るために、等々。

なんとなく、ピュアな信仰ではなく、世俗的なものを感じる章立てになっています。

 

要するに、当著は「中世の人って何でも神仏に祈る、信仰に根差した暮らし・政治を行っていたように思われがちだけど、本当なんだろうか?」という観点で史料を検証していく内容になっているんですね。

もちろん信仰は内面に根差したものですから、史料に記されている内容には限度がございますので、当著における結論も暫定的な仮説に留まってはございますが、それでも充分に興味深いものになっておりますよ。

 

エピローグから暫定結論部分を少し引用しますと、中世人が幸福をもたらす神仏にすがっていたことは事実ながら、

しかし中世の史料からは、貴族たちが宗教界から提示される祈りのかたちにしたがうことに世俗的(=非宗教的)な価値を見出していた様子や、民が自らの生活と宗教性が対立する場面では神仏に抗うことを厭わなかった姿もうかがえる。彼ら中世人は、必ずしも神仏におののくばかりではなかった。

ただし、こうした要素が中世史料の表面に浮き彫りになることは、それほどなかった。それは、神仏への態度が世俗的な価値判断に及ぼしたことが原因である。中世人は、世俗社会での争いにおいても、自分が神仏側に立っていることをアピールして正当性を確保しようとしたし、またそうすることで実際に確保することができていた。

神仏側に立つことが宗教的価値以上に意味をもっていたのが、中世という時代であった。

(中略)

中世宗教が提供する現世利益の祈りは、社会から広く求められてその役割を果たしていたが、その一方でこうした表層的な祈りの在り方からは、神仏が個々人の内面を呪縛してはいなかったことも指摘できる。

 

といったようなものであります。

このように見ると、中世人もあんがい信仰心の薄い現代人とそんなに感覚は変わらないんじゃないの感が出てきますね。

 

 

本の中ではこうした結論を導くべく、様々なエピソードが紹介されますが、個人的に一番印象に残ったのはこちら。平安時代末期に雨乞いをしようとしたところ、雨乞いする前に雨が降ってきちゃったという事例なのですが……

 

祈りの前に目的が達成されてしまうという事態をどう処理したかに絞って考えてみたい。予定されていた孔雀経法は雨を乞うための祈りであり、しかも再三辞退していた信證である。一四日当日、彼は今日始めるつもりだった孔雀経法を中止したいと申し出た。祈らなくても現に降っているのだから不自然なところはないのだが、院からは次のような仰せが返ってきたという。

自然の小雨をもっては、民の愁い休むべからず。なお法を修し、天下の愁いを省かんと欲すれば、早く修すべき也。辞し申すべからず。(『長秋記』大治五年七月一九日条)

ここで登場する「自然」という語には大きく二つの意味があり、「じねん」と訓じて「ひとりでに」の意になる場合と、「しぜん」と読んで「万が一」にとる場合がある。ここでは「ひとりでに降った雨、自然に降った雨」、すなわち祈りという人為的な作用によらない雨という意味に解釈し、全体として鳥羽院の言葉を、「祈りで降らせた雨でなければ民の愁いは消えない。やはり祈りによって天下の愁いを取り除きたく思うので、辞退せず早く勤修するように」という命令だととらえておく。この言葉で辞退できなくなった信證が祈ると、「幸い」にも雨が降った。信證自身、それを「案外のこと」だったと吐露している。

雨を降らせるためには祈りが必要だと考えたのが中世であり、さらに中世にあってはその祈りを要請するのは政治家の役割だとみなされていた。こうした政治と宗教の協働によって降った雨が「天下の愁い」を除く、それが理想的な善政の姿であった。逆にいえば、善政であることを示すためには祈りで雨を降らせることができればよいのであり、したがって政治にとっては、自然に降る雨よりも祈りで降らせた雨の方に価値があることになる。そこに民を案じる心持ちがあるかどうかは別として、この時の鳥羽院が、自然の雨ではなく祈りによる雨を欲しがったのは、こうした政治的な価値判断に基づくものだった。

 

という次第。

宗教的事項を扱う記録でありながら、政治的判断としては非常にリアリズムを感じる内容であります。

 

こうした事例を積み上げることで、先に挙げた暫定結論に至る構成になっておりまして、他にも興味深いエピソードがたくさん収められておりますから、興味が湧いた方には一読いただくことをおすすめいたしますよ。

 

 

 

ここからは私見ですが、

こういうホンネ的な中世社会の宗教との付き合い方を見ていると、現代社会における人道支援や社会貢献やSDGs等に対する姿勢に、似通った精神性を感じなくもありません。

 

もちろん、現代でも寄付やボランティアを行う精神性に、一定の清々しいものを含んでいることは間違いないと思うのですが、一方で政治や企業においては「PR」「実績づくり」「批判そらし」的なものを孕んでいることもまた間違いないと思うのです。

上で紹介した雨乞い事例のように、「実際に困っている人がいるのか、困っている人に届いているかどうかよりも、困っている人を助けるという名目の団体に寄付をしているという事実の方が大事」的な姿を目にすることってありますもんね。

 

当著の内容を現代風に置換すると、

  • 社会貢献事例のデータベース化……いいことした事例だけが記録に残っていく
  • 形式的に環境破壊を恐れたり基礎研究への投資が大事と言ったりする
  • 自らの利害と衝突した場合は、環境活動や科学者に抗う
  • 一方で選挙や裁判等では環境や科学や人権の面から正当性をアピールする

 

という感じでしょうか。

 

うん、似ていますね。

こういうことをこういう風に書いてしまうとペシミスティックでイケていない気もしますが、中世の人々もいろいろ世論対策とか大変だったんだろうなあと共感しやすくなったりもいたします。

 

まあ、あるリアルな一面を切り取ってそれをホンネだとラベリングしてしまうと、タテマエと位置付けられたピュアな面の方を過小評価してしまうことにもなりかねませんので、この辺りは評価解釈を積み上げていってモデレートにしていきたいところです。

たとえ形式的な対応であったとしても、貴族等が寄進した財貨によって、宗教組織経由で救済された方々も確かにいたことでしょうし。

 

 

どんな動機であれ、これからも権力やお金を持っている方々は世のため人のためという名目の振る舞いを増やし、お金や善意が順調に流通していく世の中でありますように。