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かんたんにかんたんします。

短編小説「松山新介重治 4/5 松山新介の稲妻」

 

 

短編小説「松山新介重治 1/5 松山新介の手妻」 - 肝胆ブログ

短編小説「松山新介重治 2/5 織田信長の依頼」 - 肝胆ブログ

短編小説「松山新介重治 3/5 松永久秀の迷い」 - 肝胆ブログ

短編小説「松山新介重治 5/5 織田信長の幸若舞」 - 肝胆ブログ

短編小説「松山新介重治 あとがき 兼 備忘」 - 肝胆ブログ

 

 

 

 

堺の中央を走る大路は『鳳凰通り』と呼ばれている。

何度も衰退の危機を迎えながら、その度に復興し、従前以上の繫栄を手にする。そんな堺の有様を伝説の不死鳥に例えたものらしい。松山新介はこの鳳凰通りを散歩するのが好きだった。

松永久秀の様子を織田信長にどう伝えたものか、新介の腹積もりはまだ決まっていない。歩いているうち、信長と話しているうちに良い考えも浮かぶだろう……と、気楽に構えるのが新介の常だった。事前に段取りした通りに芸を見せても、宴席が盛り上がるとは限らないからだ。新介にとっては宴席も戦場も、外交の場とて同じようなものなのである。

 

鳳凰通りのド真ん中で、そんな新介を何刻も前から待ち構えている者がいた。

数日前、蜂屋で新介にあしらわれた鯰江又一郎である。

巨漢の力士が仁王立ちしているのだから、どうしても人目を引く。形相を見れば乱暴な用件であることも察しがつく。新介との一件は話題になっていたから、鯰江の目当てが新介であろうことも自明である。

実際に新介が通りかかる頃には、既に何十人もの見物客が群がってきていた。

「よぉぉ鯰の兄ちゃん。堺を楽しんでいるかい」

新介が親しげに声をかける。それがまた、鯰江の顔を険しくさせた。

「ジジィ、テメェに果し合いを申し込む!」

「マジかよ。こんな爺ちゃん痛めつけても”誉”にゃならんだろうに」

「問答無用!」

さんざん待たされた鬱憤を晴らさんとばかりに、鯰江が身体ごと新介へ突っ込んだ。が、新介は猫のような軽業で宙へ逃れ、離れた場所に悠々と着地する。空気を含んだ銀髪がきらきらと光った。

「怖い怖い。鯰さん、スゲェ馬力だねえ。鯰というより牛か馬だね」

「ジジィ、やっぱりタダ者じゃねえな。昔は三好で鳴らしたってのは嘘じゃねえらしい」

「俺のこと調べてくれたのかい、嬉しいね。新ちゃんって呼んでくれてもいいんだぜ?」

「問答無用と言ったろうが!」

頭に血を上らせた鯰江が、常人の三倍はありそうな太さの腕で張り手を繰り出す。この強烈な張り手も新介は寸前で避けたが、空振りした鯰江の腕先からは突風のような音が唸った。この一撃で、新介も観衆も、鯰江がただ者ではないことを再認識して目を見張った。

「こないだのことでメンツを潰されたとでも?」

「“松山新介重治の名にビビって帰ってきた”なんて笑われたら生きていけねぇ!」

「ノセられてるんじゃねえよ。お前さん、誰かにいいように使われちゃあいないかい」

「だから、問答無用だっつってんだろ!」

鯰江が右手、左手と連続で張り手を繰り出す。やはり凄まじい迫力である。はじめは興味本位で眺めていた見物客たちは、新介が大変な目に遭わされるのではと本気で心配し始めていた。

「”蜂屋で暴れろ“、”ビビったのか“、”松山新介をやっつけろ“。全部同じやつが言ってんだろ」

「うるせえ!」

新介が回避しながら問いかけをやめないのは、体力温存のための時間稼ぎでもある。しかし、新介が予期した以上に鯰江には響くものがあったようだ。動きが少し鈍っていた。

「当たりかな? だったら、上手くいったらそいつの手柄、失敗したら切り捨てられちまうってところだぜ」

「言うな! そんな方じゃねえんだよ、きのし――」

刹那、新介が鯰江に向かって飛び込んだ。その速さは猫が鼠を捕らえる姿さながら、鯰江も観衆も眼で追うことすらできないまま、次の瞬間には“パアァン”と雷が落ちたような音が鳴り、鯰江が地に倒れ伏した。

新介の得意技、顎先への掌底が決まったのである。稲妻の如き速さの手で芸を見せれば『手妻』。稲妻の如き速さの手で人を殴れば、それはもうそのまま『稲妻』と呼ぶべき技だった。

 

「鯰さんよぉ、人前で黒幕の名前出しちゃあいけねえよ。本当に殺されちまうぜ」

「……木下様はスゲェ方なんだ。テメェみたいなジジィに好き勝手言われるとイラっとする」

失神した鯰江は蜂屋に担ぎ込まれていた。巨体だけに、運ぶのは数人がかりの騒ぎであった。

今も新介は楽に座って話しているが、鯰江は起き上がることができずに寝たまま毒づいている。

「いや、実際スゲェやつらしい。この分だと、織田の若大将に俺や久秀のことをあれこれ吹き込んだのもその木下殿なんだろうな」

木下藤吉郎秀吉と言えば織田家の出頭人として世に名高い。同じ成り上がりの新介にとっては親近感が湧く存在でもあった。だが、一介の家臣の立場から、信長、久秀、新介の人柄や因縁を把握して絵図を描く洞察力、鯰江を使って境目地域の均衡を崩そうとする胆力等、並大抵のものではない。

新介であれば、信長は使者として認める。新介が訪ねれば、久秀は三好家時代を懐かしんで寝返る。そして元三好家の新介が若い鯰江に負ければ、”三好家も今となってはたいしたことはない“という印象が広がり有利になる。新介が鯰江に勝っても、損をするのは若さ故に暴走したとされる鯰江だけだ。

「木下様に合わせる顔がない」

鯰江がめそめそと泣き始めた。デカい男が太い指先を目に当ててぐりぐり涙をぬぐっている。

その様子を見て、新介も心を動かされるものがあった。思い起こせば、かつて新介の元に集った連中もまた、こういう乱暴で幼稚な、かわいいやつばかりだったのだ。

「寝て、元気になったら帰んな。そして、木下殿にこう言うんだ。”松山新介に気に入られてしまって、これからも顔を出すように言われてしまいました。どうしましょう”ってな。そうしたらお前さんには利用価値ができて、しばらくは処分されることもあるまいよ」

「……りようかち」

「フッフフ。そうだ、値打ちだ。これからのお前さんは、強くて堺通の鯰江又一郎だ」

 

手下を作る気は今更ないが、こういう変わった友人ならいてもいいかもしれない。信長に会うのもなんだか楽しみになってきた。

新介はそんな風に感じ始めていた。

 

 

続く

 

 

 

 

短編小説「松山新介重治 3/5 松永久秀の迷い」

 

 

短編小説「松山新介重治 1/5 松山新介の手妻」 - 肝胆ブログ

短編小説「松山新介重治 2/5 織田信長の依頼」 - 肝胆ブログ

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短編小説「松山新介重治 あとがき 兼 備忘」 - 肝胆ブログ

 

 

 

 

山新介と松永久秀は、河内の真観寺(大阪府八尾市)で顔を合わせることになった。

真観寺は彼らがかつて仕えた三好長慶墓所のひとつである。長慶は主家の細川京兆家を下克上し、足利義輝を戴いて天下の権を握り、更には河内や大和へ侵攻して畿内全域に覇を振るった男として知られている。新介と久秀はそれぞれ長慶に才を見出され、侍として取り立てられ、やがて三好家を代表する将として育て上げられた間柄だった。

長慶と、長慶の兄弟、長慶の息子らが若くして次々と世を去った後、残された三好一党は方針を見失い、内乱で勢力を落とした。その間隙を縫って台頭してきたのが足利義昭を戴く織田信長である。三好家残党のうち、久秀は義昭方につき、三好長逸を筆頭とする三好三人衆は義昭方に敵対している。

そして今、久秀の三好三人衆方への寝返りが噂されているのであった。

 

濡らした布で長慶の墓を磨く久秀の姿を見つけ、新介は気安く声をかけた。

「殿に会えたってのに、顔色が冴えないな」

「やかましいわ、殿にお目見えして物思いにふけるわいの繊細な心が分からんのか」

「何を殿に相談しても“思うようにやれ”としか言われねえだろ」

「そんなことないわい、今も“久秀はよくやっている”て褒めてくれてたとこじゃ」

「フッフフ、薄い強がりはみっともないぜ」

からかいながら、新介は墓前にくるみ餅を供えた。長慶が生前愛好していた堺銘菓である。

二人揃って、手を合わせた。

 

今日は天気がいい。

二人は堂内に入らず、鐘楼の端に腰かけて柔らかい風を楽しんだ。

「よぉ織田殿の使いなんか引き受けたな」

「”松永殿とは気が合う”だってよ」

「ハッ。まあ、合わんとは言わん」

「若くて才能ある男に気を使われたら、嬉しいだろう」

「そら悪い気はせんわ。せやけど、それだけやな。胸がカァーッて熱うはならん」

「うわ、年寄りが気持ち悪いこと言いやがる」

「お前も似たような歳やんけ!」

「いまだに根に持ってるのかよ」

「かぁ、うっといやっちゃ」

新介と久秀は同世代、既に六十歳を過ぎている。信長と比べれば二回りも上の世代に当たる。

だが、新介は昔から若やいで見られる男で、二人が並んで歩いた場合は新介の方がモテた。久秀は久秀で目鼻立ちがよく、洒落者で、実力も教養もある男である。久秀も日頃はおおいにモテた。だからこそ、新介と一緒にいると日頃ほどモテなくなることが我慢ならなかったのだ。

「胸を燃やしたい、ねぇ」

「……お前のとこにも誘い来たやろ、長逸はんから」

「本人から直接口説かれたよ」

「断ったんか」

「当たり前だろ。家のことは倅どもに任せてある。本願寺を巻き込んだのも好かん」

「そか。まあ、お前はそう言うわな」

長逸はかつて長慶を支えた重臣の筆頭であり、今も畿内に隠然たる影響力を有している。彼の狙いは大三好家の復活であり、宗家を継いだ三好義継、阿波三好家、畿内国人衆、そして大和の久秀等を連合し、一挙に義昭一派を打倒しようという腹だった。

「”形“だけ三好家を復活させてもよ」

「”形”でもな、ほんまに目の前にあの頃の三好家が戻ってきたらな」

「皆の気持ちが熱くなって……”形”だけじゃなくなるのかもしれんが」

“形”には不思議な力がある。新介とてそれはよく理解している。

「せや……って、口で言うたらなんや軽うなるもんやな。……そら言う通り、皆でもっかいやり直しても”形”は所詮”形”や。殿も若殿もおらん。殿のご兄弟も長頼もおらん。そんなこと分かってるんや。多分、長逸はんかてよお分かってる。分かってても、それしかないんや」

「好きにしたらいいさ。ジッとしててもつまらんのだろう?」

「おう、つまらん。筒井なんぞに二股かけよった尻軽公方に仕えてても腹立つだけや」

「だったら理屈つけずに”ムカつくから寝返ったるわボケェ”って、松永久秀らしく言えばいいじゃねえか」

「……ほんまやな。わい、理屈が走ってたか」

「やだねえ、お爺ちゃんは話が長くて難しくて」

「じゃかましわ! だいたいなんやねん、お前織田殿から引き止め頼まれたんちゃうんか、完全にわいのこと煽っとるやないか」

「……あっ」

「かあぁーーっ! お前はほんっま変わらんのう! 殿に播磨の調略頼まれた時も使命忘れて現地のヤカラしばいて手下にして好き放題やってわいに後始末させたやろ、あん時もな、わいと正虎がどんなけ……せやのにお前ばっか殿にかわいがられて……だいたいお前の手下は品のないヤツが多過ぎなんじゃ……」

久秀の長話が始まった。新介が調子よく相槌を打ち、身振り手振りで昔の真似事をやってみせ、朗らかに笑う。いつしか、久秀の表情も晴れ晴れしたものになっている。

「やっぱり久秀と話すと楽しいな」

新介が微笑む。なんの思惑も計算もない、ただ今日この時を慈しむだけの無垢な表情。

「はん。……またな、新ちゃん」

「負けて追いかけ回されたら堺でかくまってやるよ。前みたいに」

 

新介と久秀は、気持ちよく別れた。

同時に、新介は信長への言い訳を考え始めていた。が、途中で面倒になって、日暮れの色を楽しんだ。

 

 

続く

 

 

 

 

短編小説「松山新介重治 2/5 織田信長の依頼」

 

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短編小説「松山新介重治 あとがき 兼 備忘」 - 肝胆ブログ

 

 

 

 

織田信長の宿所は法華宗妙國寺だった。

信長は法華宗の寺院を宿所にすることが多いが、妙國寺を選んだ理由は境内に根付く蘇鉄に執心だからという話である。この蘇鉄の木は、かつて堺を支配した三好四兄弟の一人、三好実休が目利きしたものだった。堺や和泉、河内では、亡き三好実休を慕う者が今も多い。信長が蘇鉄を所望しているという噂自体が、織田家による三好家残党への挑発行為だと受け止める者もいる。

「楽にさせてもらうぜ」

「それでよい」

現実の信長は、新介に対して鷹揚であった。

武士として見た場合、松山新介は隠居した一老人に過ぎない。全盛期の三好家で軍団長として勇名をはせた過去があるとはいえ、信長と相対で会話することなど本来許されるものではなかった。

しかし、堺人として見た場合は話が違う。新介は三好家に仕える前、いや、仕えてからも、堺の宴座敷で知らぬ者なき遊興者であった。堺にまつわる古記録には『堺では、三好家の侍も他家の侍も新介を呼び出し、酒を飲んで浮世を忘れた。互いに戦場へ赴く身、限りある命の世に何を期すことがあろうか。ただただ今日のこの時を求め、遊び戯れようではないか……新介のそうした振る舞いに、侍たちはおおいに慰められた――』とあるが、こうした互いの立場を離れて一期一会の真心を通わせる新介の姿勢に、同時代に発展した茶の湯と類似する精神を見出すことも可能である。

そして、堺の名物狩りを巡る以前の因縁を経て、信長も新介の人物に理解を示しているのだった。

「頼みがある」

「ほう」

松永久秀殿に会ってもらいたい」

「自分で会えばいい」

「私もそう思うが、家臣がやめろと言う」

「それで、松山新介を使いっ走りにしたらいいと家臣が進言したのかい」

「そうだ。松永殿とは気が合う。私の意向を懇ろに伝えてもらいたい」

「気が合う、ねぇ」

松永久秀は大和を支配する大名であり、織田信長と同じく足利義昭を支える一派であり、元三好家臣、すなわち新介の元戦友でもあった。確かに、信長にも久秀にも顔の効く新介は使者にうってつけである。

「松永殿を巡る雑説」

「あれだろ、三好長逸殿との和平を取り持ってもらったら、そのまま長逸殿に取り込まれそうだっていう」

「耳に入っているか」

「よくある話だ」

この時代、各地に割拠する群雄には離反を促す話が常時舞い込んでくる。かつて三好家の内乱で争った間柄とはいえ、三好三人衆が久秀を口説くのは当然だった。

久秀に調略の手が及んでいることは信長も承知している。大事なのは、久秀の胸の内を知ることなのだ。

「頼んだ」

「頼まれよう。面白そうだし」

「恩に着る」

「すぐに返してもらうさ」

信長は誠実な男である。天下の安寧を本気で願ってもいる。ただ、畿内慣れしていない面は否めないし、細かな目配りが苦手でもあった。そういう点が、天邪鬼な堺人からかえって好まれていたりもするのだが。

「それと、鯰江又一郎が世話になったそうだな」

「フッフフ。ちゃんと耳に届いたかい」

「気の利く家臣が知らせてくれた。礼を言おう、いまは堺も三好も刺激したくない」

「大将が”いまは”って思っていようが、先に口実こしらえてくるのが良い現場よ。かわいい若い衆じゃねえか」

「私はできることなら三好と争いたくないのだがな」

「仕方ねえさ。三好を追い払わねえと現場は腹が膨らまねぇだろうからな」

「……」

濃尾から上洛し天下の権を事実上握っているとはいえ、現段階では織田家の所領や利権が広がったとは言えない。信長の配下が不満を持つのも、境目地域で火種をつくろうとするのも当たり前だった。新介自身、かつては似たようなことをして成り上がったことがあるだけに尚更よく分かる。

「”人生はもと是れ一の傀儡なり、ただ根蒂の手にあるを要す“」

「意味は」

「賢い家臣に踊らされるなよ、てぇことさ」

「誰の言葉か」

「明人から聞いた。アンタの期待した男からじゃあない」

「では問いを変えよう。三好長慶殿はその方たちに踊らされていたか」

「躍らせてみたかったな。多分、久秀もそう思っている」

信長がニヤリ! と笑みを浮かべた。

「私の家臣も、私に対してそう思っているであろう」

「ああ。アンタが死んだら、アンタの家臣も右往左往してバラバラになるだろうよ」

「クク。ハハハ、アハハハハ!」

日頃は冷たい表情をしているくせに、信長の笑顔は人を虜にするような可愛らしさに溢れていた。案外、信長子飼いの将たちはこの笑顔を見たいがために懸命に戦っているのかもしれない。

 

ねぐらの蜂屋に戻った新介は、すぐに久秀へ文を送った。

 

久秀からもすぐに快諾の返信が届いた――。

 

 

続く

 

 

 

 

 

短編小説「松山新介重治 1/5 松山新介の手妻」

 

※以下、自作の創作小説となりますのでご留意ください。

 

短編小説「松山新介重治 2/5 織田信長の依頼」 - 肝胆ブログ

短編小説「松山新介重治 3/5 松永久秀の迷い」 - 肝胆ブログ

短編小説「松山新介重治 4/5 松山新介の稲妻」 - 肝胆ブログ

短編小説「松山新介重治 5/5 織田信長の幸若舞」 - 肝胆ブログ

短編小説「松山新介重治 あとがき 兼 備忘」 - 肝胆ブログ

 

※続編

短編小説「松山新介重治 一万貫の夢 1/5 松山新介 屋根を往く」 - 肝胆ブログ

 

 

 

山新介が帰ってきたという噂は、あっという間に堺の町に広まった。

彼が街路をふうわりふわりと歩くだけで、見知った通行人や商店から「新ちゃん」「お帰り新ちゃん」「ウチにも顔を出してくれよ」等と賑やかな声が飛んだ。

新介は異装である。痩身長躯の肉体を唐紅の着物で包み、頭は銀色に光るサラサラ真っ直ぐな白髪を簡単に縛っている。一方で眉毛や口髭、顎髭は墨で染めているのか艶々と真っ黒であった。進取の気風が強い堺の町とはいえ、これほど妙な風体の男、それも年寄りは珍しい。

そんな爺さんが、刀も差さず、大きな手のひらをプラプラ泳がせながら、道の中央をふうわりふわりと歩いているのだ。ただ歩いているだけなのだが、それだけで堺の町は何とも言えない非日常感に包まれていた。

 

むろん、堺を取り巻く状況は明るいものではない。

上洛してきた織田信長へ多くの矢銭や名物茶器を供出し、ひとまずの安堵を得たはずだった。ところが、近頃は三好三人衆の反撃や石山本願寺の決起があって、その織田信長が大変苦戦している。

そうなると各勢力の境目に位置する堺は自然揉め事に巻き込まれることになるし、実際に堺には織田派の町衆もいれば三好派の町衆もいて、しかもあちこちの蔵には矢玉やら鉄砲やらの軍需物資もふんだんに蓄えられているときているのだから、これはもう剣呑な空気が漂うのも当然である。

そして、だからこそ堺衆はいつも以上に新介の帰還を歓迎した。

揉めているとき、手打ちしたいとき、慰めたいとき、笑いたいとき、忘れたいとき、悼みたいとき。新ちゃんがいてくれたら……と思うのが堺衆の常であり、困ったことがあれば新介の姿を探し求めてしまうのだ。

 

ここにも困っている堺人が一人いた。

蜂屋の女将、お蜜である。蜂屋は大店の主たちが息抜きや情報交換に集う、値が張ると評判の茶屋だった。古今東西、政治や経済の街にはこうした非公式の寄り合い所が形成されるものなのだ。

「よぉぉ、お蜜さん。帰ったぜ」

「帰ったぜじゃないよ、ちょっと寄ってってくださいよ。難儀な客がいるんですよう」

お蜜の肌から椿油のかぐわしい匂いが立ち昇る。新介の機嫌が一層よろしくなった。

「難儀な客ってなんだい」

織田家お抱えの力士さんが酔って暴れて、三好の侍を呼んでこいってきかないんです」

「俺はもう三好の侍じゃないぜ」

「分かってますよ、本当に三好の侍なんざ連れてきたら収集つかなくなっちゃうでしょう」

「フッフフ、そうだな。代わりに、しばらく置いてくれないか」

「ありがとう、二階の部屋を好きに使っておくれ」

万事解決したとばかりにお蜜は弾けるような笑顔を見せた。

 

織田家の相撲取りってのはお前さんかい」

気安く新介に話しかけられ、巨漢の力士は眉間にしわを寄せた。

「なんだジジィ。テメェが三好家の侍だってえのか」

「話を聞こう」

「話すことなんざねえ。だったらブチのめして仕舞いだあ」

口上を終える前から立ち上がり、やおら腕を伸ばして新介の首元を掴もうとする――が、その手がすり抜けた。

「荒くってえなあ。三好と揉め事を起こして開戦の機をつくれ……とでも指図されてきたかい」

いつの間にやら新介が力士の背後にいる。これには力士も薄気味悪く感じたらしい。

「……鯰江又一郎だ。テメェ何もんだ」

「松山新介重治だ。若えぇ鯰さんよ、堺の座敷で地震起こしちゃあいけねえな」

新介が胸元からまっ白な手ぬぐいを出した。意図が分からず、鯰江は手ぬぐいを凝視する。

「さあて、何の変哲もないこちらの手ぬぐい」

と、新介が宙に手ぬぐいを振り上げ、二度、三度と振った。

――ガチャリ、ドチャリ。

なんということか。新介が振るたび、手ぬぐいから刀や脇差が床にこぼれ落ちた。

「な、なな、なんだそりゃあ」

「乱暴は手ぬぐいの中にでも仕舞っておくのが座敷の嗜みよ。次からはもっとオドけた姿で来たらいいぜ」

新介が鯰江に向かってパチンと指を鳴らす。違和感を覚えた鯰江が襟をまさぐると、いつの間にやらツツジの花びらが何十枚も首元に入っていた。花びらを湿らす冷や汗、ツツジの香気。日頃物怖じすることのない力士鯰江もさすがに動転した。

「ジ、ジジィ。テメェ妖術使いか」

「フッフフ。ただの宴会芸、手妻ってやつさ」

手を稲妻のごとく操る芸を『手妻』という。手品の祖である。

「鯰さん、帰って織田の若大将に伝えな。”堺の遊び場を大事にしろって前にも言ったろう“、松山新介がそう言ってたってな」

「松山、新介」

「新ちゃんって呼んでくれてもいいんだぜ」

ニッカリと新介が笑う。その肌は妙に瑞々しく張りがあって、頭髪の白さにそぐわなかった。

 

結局、得体のしれない新介に怖気づいた鯰江又一郎はひとまず退散した。お蜜をはじめとした堺衆が湧いたことは言うまでもない。

 

そして二日後、新介は織田信長に呼び出されたのである。

 

 

 

続く

 

 

 

「じゃりン子チエ 文庫版19巻 感想 空飛ぶアントニオジュニア」はるき悦巳先生(双葉文庫)

 

じゃりン子チエ文庫版19巻、とうとうアントニオジュニアと敵猫が空を飛んで戦い始めてかんたんしました。

大阪の猫は空中戦まで体得しているんですね。

 

www.futabasha.co.jp

 

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19巻収録のお話は次の通りです。

 

  • 真夏のサイレン
  • サイレンがテツを呼ぶ
  • 真夏の夜の落石
  • 終戦記念日の爆弾
  • ユンカースを落とせ
  • 真夏のタコ上げ
  • ジュニアの離陸
  • 風速40米の空中戦
  • 台風後遺症
  • おたずね猫ジュニア
  • ユンカース語る「グラマン元帥」①
  • ユンカース語る「グラマン元帥」②
  • 一人ぼっちでビビビビビ
  • 感電数珠つなぎ
  • 電気クラゲは停電中
  • 講談師テツ
  • スイッチON
  • ヒラメ一家で首実験
  • みんなで画廊へ
  • 黙ってにらめばピカリと光る
  • マジメメガネで変装
  • 福笑いテツ
  • 関門突破
  • テツの復元
  • 価値ある勝利は本当に重い

 

 

以下、ネタバレを含みますのでご留意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

前半はハングライダーに乗って空を駆ける猫とアントニオジュニアの戦い、

後半はイカサマ博打ヤクザをテツとお好み焼屋のオッちゃんが成敗する話です。

 

空飛ぶ猫の戦いという超現実的な内容に見えますが、たぶんこの西萩界隈ではあり得る光景なのでしょう。たぶん。

 

 

 

各登場人物・猫の名台詞をご紹介します。

 

 

テツ

「サイレン鳴るっちゅうのは火事かケンカや

 どっちでも最高やど」

 

下町のオッさんらしい野次馬根性。

サイレンは、空飛ぶ猫「ユンカース」さんの攻撃予告サイレンです。

 

 

 

小鉄&アントニオジュニア

「サイレンの鳴ってるとこになんて

 飛んで行ってもロクなことないど

 おまえ行きたかったら

 勝手に行ってきたらええやないか」

「勝手にて………

 おまえと行くからおもろいのに」

 

同じくサイレンを聞いたときの二匹のリアクション。

ジュニアの小鉄への慕いようがかわいいですね。

こういう友情表現好きです。

 

 

 

テツ&おバァはん&チエちゃん

「そのかわりもし家に居ってワシの身に危険があったら

 お母はん責任とれよ」

「へいへい

 もしなんかあったらこの夏休み中

 毎日 氷金時おごったげますわ」

「アホ…命がかかっとるんじゃ

 天丼にしてくれ」

「ふぅ…」

「……安い命や」

 

空飛ぶ猫ユンカースさんの落石攻撃はネコ同士の抗争なのですが、テツは自分への刺客だと勘違いして騒ぎます。

「安い命や」とボソッとツッコむチエちゃんが好き。

 

 

 

ユンカース(猫)

「タフだよなぁ

 サイレンの音を聞いたってビビリもしねぇ

 石を直撃されてノビちまっても

 気がついてすぐ逆襲に出ようとしたのはお前だけだぜ」

 

凧を組んで復讐しようとするジュニアを見て好敵手と認めるユンカースさん。

もともとユンカースさんは小鉄("地獄のひょうたん池"と噂されるキンタマ取りの存在が噂されていた)狙いで大阪へ訪れたのですけど、ドラマはジュニア対ユンカースに収れんしていきます。

 

 

 

お好み焼屋のオッちゃん(百合根)

「さあ行こかい

 アントニオ

 過激な遊びが好きなおまえに

 もってこいの天気やないか」

 

ジュニアを死んだアントニオと誤認した上、台風の中で凧を揚げることを快諾する酔っ払い。猫の抗争を自然と支援できるとは、なんて便利なキャラクターでしょう笑。

 

 

 

ユンカース(猫)

「まったくとんだキンタマ地獄だったぜ」

 

捨て身のジュニアに撃墜され、挙句キンタマをひねり上げられてドッジボールくらいに腫れあがるという地獄をみたユンカースさん。

この猫からはジュニアや小鉄へのリスペクトを感じられるので、敵ながら爽やかな印象が残りました。

 

 

 

アントニオジュニア

「やった~

 やったど~~~

 とぉとぉオレ飛行機の操縦をマスターしたど」

 

ユンカースさんのハングライダーを奪って操縦方法をマスターしてしまったジュニア。まことに大阪の猫はタフですね。

 

 

 

お好み焼屋のオッちゃん(百合根)

「おまえの負け方は完全にイカサマのパターンやんけ

 最初は適当にチョコチョコツイて

 その気になってやったら急に負けが続いた……

 そぉなんやろ」

 

イカサマバクチ被害者のオッちゃんを的確に分析する元バクチ屋。

 

 

 

テツ

「だいたい現金でバクチやる奴があるかい

 バクチはツケでやって負けが込んだら踏み倒す

 ゆうのが鉄則やんけ」

 

イカサマバクチ被害者のオッちゃんに役に立たないアドバイスをするテツ。

 

 

 

テツ&お好み焼屋のオッちゃん

「オ…オッさん

 とにかく腹ごしらえや

 ちょっとそのジャガイモニ・三個」

「全部いけ」

 

イカサマバクチヤクザへ仇討に出る二人。

ふだんはケンカしていても、こういうときは息が合って仲良しなのがいいですね。

 

この後、テツとバレずにバクチ場へ侵入できるよう、変装したテツの姿もなかなかの傑作なんですよ。

 

 

 

お好み焼屋のオッちゃん(百合根)

「ワシがついてる

 テツ~~

 ワシの家の権利証で勝負かけたらんかい」

 

酔っぱらって全財産を賭け始めるオッちゃん。

これで勝負ありましたね。

 

 

 

 

アントニオジュニアにテツ&オッちゃんと、久しぶりに登場人物たちが格好よく活躍する巻でした。

じゃりン子チエは子どもの世界、(ダメな)大人の世界、猫の世界と、バランスよく色んなドラマを見れるのが魅力です。

 

次巻以降では久しぶりにヨシ江はんあたりの活躍が見れますように。

19巻では特に活躍してませんが、台風のときに焦って家の戸の外側に板を打ち付けて中に入れなくなっている姿がかわいかったです。

 

「じゃりン子チエ 文庫版18巻 感想 おバァはんの謀略がエグい」 - 肝胆ブログ

「じゃりン子チエ 文庫版20巻 感想 ジェミニの悪太郎1/2」はるき悦巳先生(双葉文庫) - 肝胆ブログ

 

 

「ドン・フワン・テノーリオ 感想 キリスト教戯曲の大乗仏教的美しさ」作:ホセ・ソリャーサ / 訳:高橋正武(岩波文庫)

 

宗教幻想劇「ドン・フワン・テノーリオ」を読んでみましたら、いい意味でキリスト教らしい救済のされようが美しくてかんたんしました。

紀州ドンファン事件」の報道を見て軽い気持ちで読んでみたんですけど、想像以上に内容がよかったので何事もきっかけだなあと思います。

 

www.iwanami.co.jp

 

 

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ドン・フワン(ドンファン)さんは、スペインのセビーリャという街における伝説的な人物で、17世紀から作劇の対象となり、徐々にヨーロッパ全土にドン・フワン演劇が広まっていき、様々なタイプのドン・フワンさんが創作されていったとのことです。

いずれの創作作品でもドン・フワンさんは色事と暴力、要はセックス&バイオレンスな色男として描かれているようですね。

 

そうした流れの中、19世紀にホセ・ソリャーサさんによって描かれたこちらの「ドン・フワン・テノーリオ」はとりわけ完成度の高い演劇で、ドン・フワンさん物語を単なるセックス&バイオレンスドラマに留めることなく、大いなる神の愛によりドン・フワンさんの御魂が救われるまでを描く宗教幻想劇になっているのが特徴です。

 

このキリスト教的な救済のされっぷりが、大乗仏教の味わいにも通じるような大変魅力的なセリフ・演出で描かれていまして、古典的ながら現代人が見ても充分に面白い傑作になっているように思いました。

解説含めて200ページほど、すぐに読める分量ですので、西洋文学や神仏の慈悲に関心がある方は手に取ってみるといいんじゃないでしょうか。

 

 

もちろん、当作品のドン・フワンさんもベースはとんだ外道野郎でして、物語開始時点で殺人数は32人に及びますし、手籠めにした女性は上は宮廷の姫君から下は漁師の娘まで72人という数にのぼります。

 

スゲェ。

 

暴力も計略も得意な人物なのでそういうレコードを記録するのですけれども、一方でどこか勇敢っぽいところや騎士っぽい面も持ち合わせていて、しかもイケメンで金持ちで、しかも心の底では神の救いを求めていたりもするので、憎みきれないところが憎い感じの人物に造形されているんですよね。

もう男の魅力の欲張りセットです。

 

 

名ゼリフも多くて。実際に劇場で聞いたら楽しいだろうなあ。

おれは、けっして、ぐずぐずしない男なんだ。 

そこにある女の数で一年三百六十五日を割ってみろ。睦言をかわすのに一日、手に入れるのに一日、相手を取りかえるのに二日、忘れるのには、ただの一時間。

君に勝ったのは、謀ったからさ。しかし、そこが、ドン・フワンらしいところさ。

そしてまた、このドン・フワンの唇から洩れだして、あなたの胸にそうっと浸みこんでいく、わたしのことばと、あなたの胸の底で、まだ燃え出していない炎をかきたてる、その思いとは、ねえ、わたしの星なる人よ、愛の息吹きを交わしているのじゃないでしょうか。

――おれは天を呼んだ。しかし、天は答えなかった。天の扉は、おれには閉ざされている。おれの足は地上をいく。その責任は天が負え。おれは知らない。

放せ、その手を放してくれ。おれの生涯の、最後の砂の一粒が、まだ時計の底に残っている。刹那の悔悟が魂の永劫の済度となるならば、聖なる神よ、わたしはおん身を信じます。わたしの罪業はまことに前代未聞。ただし、神のご慈悲も、広大無辺! 神よ、わたしにご慈悲を垂れたまえ! 

 

この、人が尽くせるだけの悪を尽くしてもなお、人知の及ぶところでないビッグな愛で人を救ってくれる神の存在を願う、人のありようがいいですよね。

非常に生き生きと浅ましくて素敵です。

これでこそ救われるべき人間だし、これでこそキリスト教大乗仏教が生まれてきたんだよね感がございます。

 

物語クライマックスでドン・フワンさんが救済される場面は、ヒロインの活躍含めてまことに美しいので、興味がある方はぜひ読んだり観劇してみたりしてください。

 

 

ストレートに美しい大慈大悲を見ることができる作品ってあんがい少ないので、かえってこの「ドン・フワン・テノーリオ」は新鮮でした。

本願寺とかで上演したらおもしろいだろうなと思います。

 

そのうち当作をお芝居で観る機会に恵まれますように。

スペインでは毎年上演されているそうですが、遠いなあ。

 

 

 

 

小説「蜜のあはれ 感想 室生犀星さんの性癖マジすげぇ」(青空文庫)

 

室生犀星さんの金魚擬人化幻想小説「蜜のあはれ」を読みましたら、70歳の著者が書いたとは思えないくらいぶっ飛んだ性癖描写が盛りだくさんでかんたんしました。

ふるさとを遠きにありて思ふことで定評のある室生犀星さんのイメージがガラリと変わってしまいましたねこれは。

 

www.aozora.gr.jp

 

 

 

「蜜のあはれ」は、金魚がちんぴら美少女に変身して老小説家と同棲する物語です。

 

ストーリーは不可思議なもので、

  • 金魚娘が「あたい、言ってやったわ。~~……」とわめいたり、
  • 金魚娘と老小説家がいちゃいちゃしたり、
  • 金魚娘と女幽霊と老小説家で三角関係したり、
  • 金魚娘を他の雄金魚に寝取らせて老小説家がその子どもを育てようとしたりする、

たいへん怪しい作品になっています。

1959年の作品と思えないような斬新さがありますね。

 

よく考えたら、ウマを擬人化したゲームが流行った2021年のコンテンツシーンにハマる作品かもしれません。

 

 

作品の特徴としては、

  • 地の文がなく会話だけで話が展開していくテンポのよさ、
  • コケティッシュな美しさのある文章、
  • そして何よりも倒錯した性癖描写の数々、

に目を引かれます。

 

 

幾つか印象に残った箇所を引用いたしますと。

 

金魚にお尻(お臀)の美しさを力説する老小説家。ハイレベルです。

「一たい金魚のお臀って何処にあるのかね。」
「あるわよ、附根からちょっと上の方なのよ。」
「ちっとも美しくないじゃないか、すぼっとしているだけだね。」
「金魚はお腹が派手だから、お臀のかわりになるのよ。」
「そうかい、人間では一等お臀というものが美しいんだよ、お臀に夕栄えがあたってそれがだんだんに消えてゆく景色なんて、とても世界じゅうをさがして見ても、そんな温和しい不滅の景色はないな、人はそのために人も殺すし自殺もするんだが、全くお臀のうえには、いつだって生き物は一疋もいないし、草一本だって生えていない穏かさだからね、僕の友達がね、あのお臀の上で首を縊りたいというやつがいたが、全く死場所ではああいうつるつるてんの、ゴクラクみたいな処はないね。
「おじさま、大きな声でそんなこと仰有ってはずかしくなるじゃないの、おじさまなぞは、お臀のことなぞ一生見ていても、見ていない振りしていらっしゃるものよ、たとえ人がお臀のことを仰有っても、横向いて知らん顔をしていてこそ紳士なのよ。」
「そうはゆかんよ、夕栄えは死ぬまでかがやかしいからね、それがお臀にあたっていたら、言語に絶する美しさだからね。」

 

 

 

金魚とキスする老小説家。ハイレベルです。

「はい、干鱈。」
「こまかく刻んでくだすったわ、塩っぱくていい気持、おじさま、して。」
「キスかい。」
「あたいのは冷たいけれど、のめっとしていいでしょう、何の匂いがするか知っていらっしゃる。空と水の匂いよ、おじさま、もう一遍して。」
「君の口も人間の口も、その大きさからは大したちがいはないね、こりこりしていて妙なキスだね。」
「だからおじさまも口を小さくすぼめてするのよ、そう、じっとしていてね、それでいいわ、ではお寝みなさいまし。」

 

 

 

金魚とうんこについて語り合う老小説家。ハイレベルです。

「おじさまはとても図太いことばかり、はっとすることをぬけぬけと仰有る。そうかと思うと、あたいのお尻を拭いてくださるし……」
「だってきみのうんこは半分出て、半分お尻に食っ附いていて、何時も苦しそうで見ていられないから、拭いてやるんだよ、どう、らくになっただろう。」
「ええ、ありがとう、あたいね、何時でも、ひけつする癖があるのよ。」
「美人というものは、大概、ひけつするものらしいんだよ、固くてね。」
「あら、じゃ、美人でなかったら、ひけつしないこと。」
「しないね、美人はうんこまで美人だからね。
「では、どんな、うんこするの。」
「固いかんかんのそれは球みたいで、決してくずれてなんかいない奴だ。」
「くずれていては美しくないわね、何だかわかって来たわよ。」
「きめの繊かいひとはね、胃ぶくろでも内臓の中でも、何でも彼でも、きめが同じようにこまかいんだよ、うんこも従ってそうなるんだ。」

 

 

 

金魚のNTRを楽しむ老小説家。ハイレベルです。

「何だ、お腹なんか撫でて。」
「あのね、どうやら、赤ん坊が出来たらしいわよ、お腹の中は卵で一杯だわ、これみな、おじさまの子どもなのね。」
「そんな覚えはないよ、きみが余処から仕入れて来たんじゃないか。」
「それはそうだけれど、お約束では、おじさまの子ということになっている筈なのよ、名前もつけてくだすったじゃないの。」
「そうだ、僕の子かも知れない。」
「そこで毎日毎晩なでていただいて、愛情をこまやかにそそいでいただくと、そっくり、おじさまの赤ん坊に変ってゆくわよ。」
どんな金魚と交尾したんだ。
「眼のでかい、ぶちの帽子をかむっている子、その金魚は言ったわよ、きゅうに、どうしてこの寒いのに赤ん坊がほしいんだと。だから、あたい、言ってやったわ、或る人間がほしがっているから生むんだと、その人間はあたいを可愛がっているけど、金魚とはなんにも出来ないから、よその金魚の子でもいいからということになったのよ、だから、あんたは父親のケンリなんかないわ、と言って置いてやった。」

 

 

 

金魚にくぱぁさせて楽しむ老小説家。ハイレベル過ぎます。

「慍って飛びついて来たから、ぶん殴ってやった、けど、強くてこんなに尾っぽ食われちゃった。」
「痛むか、裂けたね。」
「だからおじさまの唾で、今夜継いでいただきたいわ、すじがあるから、そこにうまく唾を塗ってぺとぺとにして、継げば、わけなく継げるのよ。」
「セメダインではだめか。」
「あら、可笑しい、セメダインで継いだら、あたいのからだごと、尾も鰭も、みんなくっついてしまうじゃないの、セメダインは毒なのよ、おじさまの唾にかぎるわ。いまからだって継げるわ、お夜なべにね。お眼鏡持って来ましょうか。」
「老眼鏡でないと、こまかい尾っぽのすじは判らない。」
「はい、お眼鏡。」
「これは甚だ困難なしごとだ、ぺとついていて、まるでつまむ事は出来ないじゃないか。もっと、ひろげるんだ。
「羞かしいわ、そこ、ひろげろなんて仰有ると、こまるわ。」
「なにが羞かしいんだ、そんな大きい年をしてさ。」
「だって、……」
「なにがだってなんだ、そんなに、すぼめていては、指先につまめないじゃないか。」
「おじさま。」
「何だ赦い顔をして。」
「そこに何かあるか、ご存じないのね。」
「何って何さ?」
「そこはね、あのね、そこはあたいだちのね。」
「きみたちの。」
「あのほら、あのところなのよ、何て判らない方なんだろう。」

「騙してなんかいるものか、まア型ばかりのキスだったんだね。じゃ、そろそろ、尾っぽの継ぎ張りをやろう。もっと、尾っぽをひろげるんだ。
「何よ、そんな大声で、ひろげろなんて仰有ると誰かに聴かれてしまうじゃないの。」
「じゃ、そっとひろげるんだよ。
「これでいい、」
「もっとさ、そんなところ見ないから、ひろげて。」
「羞かしいな、これが人間にわかんないなんて、人間にもばかが沢山いるもんだナ、これでいい、……」
「うん、じっとしているんだ。
「覗いたりなんかしちゃ、いやよ。あたい、眼をつぶっているわよ。」
「眼をつぶっておいで。」

 

 

 

いやあ。

1950年代カルチャーの固定観念が崩れ去るような驚きの作品でございますね。

 

はえぇぇぇ……と、口を開けてかんたんしながら読ませていただきました。

 

文章全体を通して伝わってくる独特のモダンな美的感性が楽しい小説ですので、幻想性ある創作作品に惹かれる方には性癖抜きにおすすめしたいと思います。

 

 

それにしても室生犀星さん、死の3年前、70歳になってからこういうクリエイティブな小説を書かれているってのが素晴らしいですね。

たぶん執筆していてめちゃくちゃ楽しかったんじゃないでしょうか。

 

現代の偉大なクリエイター方も、晩年まで精力的に活躍いただいて、むしろ晩年こそが充実した実り多きものとなりますように。